京セラやKDDIを創業し、JAL再建にも尽力した稲盛和夫氏が8月、逝去した。組織を小集団に分けて効率化を図る「アメーバ経営」や仏教的な「利他の心」を重視する独自の経営理念で、“経営の神様”と称された稲盛氏。その生きざまには、約150年前に一代で川崎重工業の基礎を築いた“造船王”川崎正蔵との意外な共通項がある。激動の時代、ともに「徒手空拳」の下積みからたたき上げ、日本をリードする企業を作り上げた2人の経営哲学に迫ってみよう。(ジャーナリスト 桑畑正十郎)
一つ目の共通点
鹿児島で苦難の少年時代を過ごし、関西で飛躍した
稲盛和夫氏が鹿児島市に生を受けたのは、1932(昭和7)年。日本が戦争への道をひた走り、満州国が建国宣言したその年である。印刷工場を営む一家の次男に育ったが、幼い頃は吃音(きつおん)癖もあり、母親の背を追ってばかりいる引っ込み思案の子だったという。
不運にも父の印刷工場が火事で焼け、一家は困窮。その上、和夫少年は、結核の初期段階に当たる病「肺浸潤(はいしんじゅん)」」にかかり、旧制中学受験にも失敗してしまう。
終戦直後、紙袋の行商をして家計を支えるなど苦難の少年期を過ごした稲盛氏は、第一志望だった医学部受験にも失敗し、鹿児島県立大学工学部(現在の鹿児島大学工学部)へと進んだ。
卒業後は京都の碍子(がいし)メーカー・松風工業に入社し、そこで稲盛氏の運命を変える「セラミック」と出合うのは広く知られた話である。
さて、同じく鹿児島城下に江戸末期の1837(天保8)年、商家の跡継ぎとして生まれた川崎正蔵も苦難の少年時代を過ごした。川崎家は、もとは武士だったというが士籍を脱し、父・利右衛門の代には木綿行商や筆・紙など小間物を売る商いを細々と営んでいたという。