1955年に小市が死去すると、後任社長に就任したのは娘婿の河合滋(1922年7月28日~2006年8月20日)だった。滋の言葉を借りれば、当時の河合楽器は「破産に近い状態」で、そこから会社の再建を命ぜられたのだという。「私は再建の方針として、業界の将来性を見越して、積極拡大政策を取ろうと決意した」と、「ダイヤモンド」1963年3月15日臨時増刊号で河合は振り返っている。そして、割賦によるピアノの直販を始めたほか、ピアノ調律技術者養成所(現カワイ音楽学園)やカワイ音楽振興会などを設立して、ピアノの普及と音楽文化の振興に注力した。
河合は陸軍士官学校出身の元軍人である。今回紹介する記事では軍隊教育の体験が会社経営にどう生かされているかが述べられている。当時はまだ社長就任から8年目ではあるが、この後、積極拡大政策はさらに続き、河合楽器は世界規模で事業を拡大していく。
また、80年にはグランドピアノ専門工場である竜洋工場を建設。この工場からは99年、河合の名が付けられた最高級グランドピアノ「Shigeru Kawai シリーズ」が生み出された。河合楽器が持つ最高の素材と技術を投入したとされる最上位ブランドである。また2017年に、同社の創立90周年を記念して創設されたピアノコンクールも「Shigeru Kawai 国際ピアノコンクール」と名付けられている。日本のピアノ産業の発展を支えた功績は、ブランド名として残り続けている。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)
二つの座右銘
指揮官としての誇り
「指揮官は軍隊指揮の中枢にして、又団結の核心なり。故に常時熾烈なる責任観念及び強固なる意志を以て、其の職責を遂行すると共に、高邁なる徳性を備え、部下と苦楽を倶にし、率先躬行、軍隊の儀表として、其の尊信を受け、剣電弾雨の間に立ち、勇猛沈著、部下をして仰ぎて富嶽の重きを感ぜしめざるべからず。
為さざると遅疑するとは指揮官の最も戒むべき所とす。是此の両者の軍隊を危殆の陥らしむること其の方法を誤るよりも甚しきものあればなり」(作戦要務令綱領)
「隣国の兵は大なり、その武器は新たなり、その勇武は優れたり、しかれども、指揮の一点は譲るべからず」
私が、軍人の出身であるために、なにか、特別な経営をやっているように誤解されているらしい。特に昨今、兵法書ブームで、余計に私ども軍人出身の経営者に、奇異な関心が集まるようだ。確かに、作戦要務令に書かれている軍隊の指揮方法、物の考え方、手順などには、経営に取り入れてよいようなものが数多くある。しかし、なにも私は、作戦要務令と首っ引きで仕事をしているのではない。
私は、自分の仕事を、全力を振るってやったにすぎない。その全力を振るう過程において、たまたま、私のキャリアの中に軍隊教育の体験があって、その体験が当てはまるときに、自然にそれが使われているにすぎない。
ただ、作戦要務令とか、その他の兵書の中の字句で、私の座右銘にしているものが上記の二つである。
私の今日までの過程は、企業が遭うであろう全ての問題、さらには、株の買い占めから産業スパイまで織り込まれた変転極まりないものもあった。いまにも崩れ去ろうとする私の心を支えていてくれたのは、この二つの言葉に象徴されている、かつての指揮官としての誇りであった。