姉川の戦いで
織田信長に敗れた浅井長政
信長は徳川家康の援軍を得て浅井・朝倉連合軍と激突した。この姉川の戦いに敗れた長政は、比叡山などと連携して対抗したが、1571(元亀2)年には佐和山城を信長に奪われ、比叡山も焼き打ちされてしまった。翌1572(元亀3)年、信長は小谷城の目の前にある虎御前山に砦を築き、羽柴秀吉を城将として迫った。
1573(天正元)年、小谷城の西側にあり、琵琶湖との間を守って搬入路を確保していた山本山城(長浜市)が織田方に落ち、小谷城は完全に孤立した。信長は即座に出陣して虎御前山城に入った。義景も長政救援のために出陣した。8月12日の夜、大雨の中を信長は自ら朝倉軍が守備した大嶽城を急襲して攻め落とした。織田軍はそのまま越前まで攻め込み、8月20日に義景は自害して朝倉氏は滅んだ。
越前からとって返した織田軍は、秀吉を先陣として小谷城に攻め寄せた。東側尾根の主要な城域はこのときまだ無傷だった。南北に800メートルにもわたって曲輪が連なった小谷城主要部の曲輪を麓から順々に攻めれば、織田軍に甚大な被害が出る。そこで秀吉は急斜面をよじ登り、長く延びた城域の中央を横から攻めて、長政と父の久政を分断した。
小谷城は尾根筋を攻め登ってくる敵を撃退するため、本丸の背後にも巨大な堀切りを設けた。しかし、その巨大な堀に阻まれて、秀吉の猛攻を受ける父を長政は救援できなかった。巨大であっても分立的な構造の城では守りに限界があったのである。久政の自刃後、長政は本丸から出撃して反撃したが、ついに城内の赤尾屋敷で自害した。落城前にお市の方と子供の茶々、初、江は城から脱出した。この3姉妹は、のちに大きな歴史的役割を果たすことになる。