鮎川義介・日産コンツェルン創始者

「ダイヤモンド」1934年3月1日号に「日産の変態経営」と題したレポートが掲載された。この年、日本産業(日産)が大阪鉄工所(現日立造船)、共同漁業(現日本水産)、東洋捕鯨(現日本水産)の合併を相次いで決定したことに関する分析記事である。記事では多角化を図る日本産業の“変態(形態を変えること)”について、疑義を呈している。「多角化経営は現代の傾向である。紡績が生糸・人絹・羊毛に進出し、肥料製造が薬品に転向するごときが顕著な例であるが、日産の多角化経営は木に竹を接ぐごときで、その間になんら事業上の連絡がない」と酷評しているのである。

 日本産業は、久原財閥を引き継いだ鮎川義介(1880年11月6日~1967年2月13日)が、中心企業である久原鉱業を改組して1928年に持ち株会社として設立された。後に日産コンツェルンと呼ばれる、戦前の十五大財閥の一つに成長する。終戦後、日産コンツェルンはGHQ(連合国軍総司令部)によって解体されたが、今も日立製作所、日産自動車、JX金属(旧日本鉱業)、ENEOS(旧日本石油)、日立造船、日本水産、ニチレイ、日油など、日産コンツェルンの流れをくむ企業群が日産・日立グループを形成している(日本産業と鮎川の詳細に関しては、本連載の過去記事〈https://diamond.jp/articles/-/218752〉〈https://diamond.jp/articles/-/219275〉を参照いただきたい)。

 持ち株会社である日本産業の傘下には当時、日本鉱業(現JX金属)、戸畑鋳物(現プロテリアル)、日立製作所、日立電力(すでに解散)、東洋製罐などがあった。唯一の例外としてボルネオ島におけるゴム事業だけが直営だったが、ゴム事業は不振続きで分離しても独立経営は困難と判断したからという事情があった。そうした方針を覆して持ち株会社が合併するのはなぜか。それを「プレミアム稼ぎとみる向きが多い」と記事では説明している。「ボロ会社を合併の際に株価をあおり、後日分離する際に分離益を出すという手法だろう」というのだ。また、鮎川の積極的な拡大方針について、一部の株主が不安を唱え始め、警戒期に入ったとも記事は伝えている。

 記事が出るとすぐさま、当の鮎川から編集部に連絡があったという。そして、まるでネット記事のようなスピード感だが、なんと翌3月11日号(当時は週刊ではなく1の付く日の月3回の刊行だった)に「日本産業を語る」という鮎川本人による釈明記事が掲載された。かなりのロングインタビューだったらしく、さらに翌号の3月21日号にも続きが掲載されている。当時の鮎川の思惑がうかがえる貴重な生の声を、お伝えしたい。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

持ち株会社への転向には
福澤桃介も机をたたいて反対した

「ダイヤモンド」1934年3月11日号「ダイヤモンド」1934年3月11日号より
「ダイヤモンド」1934年3月1日号に掲載された「日産の変態経営」と題したレポート「ダイヤモンド」1934年3月1日号に掲載された「日産の変態経営」と題したレポート

――日産の経営方針は変更されたようですね。矢継ぎ早に大阪鉄工所、共同漁業、東洋捕鯨の合併を決定し、そしてさらに大日本製氷(現ニチレイ)をも……。日産の基礎を危うくすることになりはせぬか。

 そういうことはないと思う。一つ一つお答えする前に、経営上の信条をお話ししよう。

――どうぞ。

 私が久原鉱業の社長に就任したのは、1928年3月でした。その年の12月に会社の組織を変更した。社名を日本産業と改称し、それまで中心事業であった鉱山事業を日本鉱業に委ねて、持ち株会社に転身したのです。

――その通りでしたね。

 そのときの精神は一貫して今日に及んでいる。あの当時持ち株会社に転向したことについてはなかなかに反対が多かった。福澤桃介(福沢諭吉の娘婿で実業家)氏のごときは、わざわざやって来て君はバカになったのか、歴史の重んずべきを知らぬのか、と机をたたいて私を責めたものでした。けれども今に分かってくると考えて押し通してきたのです。

 私は久原鉱業を引き受けてからその内容を検討して、これはひどいところへ入ったと驚愕した。当時の久原鉱業を分解すると、事業の中心は鉱山事業にあった。これに電力事業とゴム事業が付属し、そして、有価証券投資も少なくなかった。有価証券投資は日立製作、東洋製鉄等でした。投資の割合は7割強が鉱山設備、残りが付帯事業、有価証券投資、不良資産というようなものでした。

 その当時、鉱山事業の内容について悲観説が流布されていた。日立の山はすでに掘り尽くしたから余命いくばくもなしなどと言われたのです。私の専門は機械の方だから鉱山採掘のことは不案内だ。中心事業は悪評があり、不良資産は多いし、とんだものを引き受けたと心配したのです。