前回にも紹介した通り、鮎川義介は東京大学を卒業して社会に出るというときに、「終生富豪となることなしに、天職に精進しよう」という誓いを立て、輝かしい出自や学歴を隠して、日給48円の職工としてキャリアをスタートさせる。そこから日立製作所、日産自動車、日本鉱業、日立造船、日本水産、日本冷蔵、日本油脂、日産化学、日産火災海上保険、日産生命保険、日産農林、帝国石油、石油資源開発……などを擁する日産コンツェルンを築き上げた。
日産コンツェルンは第2次世界大戦後、GHQ(連合国軍総司令部)から「財閥解体」の対象にもされたが、財閥とは「一族の独占的出資による資本を中心に結合した経営形態」だと定義した場合、日産コンツェルンは他の財閥とは一線を画す存在といえる。
記事の中で鮎川は「仕事をするに際し、常に大衆ということを念頭に置き、資金も常に大衆から集めた」と述懐している。
グループ企業の持ち株は公開して市場から資金を調達し、その資金を用いてM&A(企業の合併・買収)を含めた新規分野への進出を果たし、その事業が大きくなれば分離独立させてまた株式公開……といったサイクルでコンツェルンを拡大していった。富の循環を財閥内に閉じることなく市場に還元し、企業活動の中に投資家や労働者、消費者といった一般大衆を巻き込むという経営戦略を展開したのである。
また、鮎川は「財閥が同族の資本を中心にして、他人の支配を許さなかったのに対し、私は門戸開放主義で、決して同族のために自己の財を守ろうなどとは、夢にも考えたことはなかった」とも語っている。
確かに、日産コンツェルンには「鮎川」の名を冠した会社は存在しない。また、現在ベンチャービジネス向けの投資会社となっているテクノベンチャー(旧・中小企業助成会)を除き、日産自動車をはじめとする旧日産コンツェルンの企業群に子息を入れることもしなかった。トヨタ自動車と違い、日産自動車に創業家出身のトップが存在してこなかったのは、鮎川の方針のためである。
仕事が趣味で、「まだまだ100歳ぐらいまでは生きられる。それまでは石にかじりついても死なないつもりだ」と語っていた鮎川。だが、このインタビューの3年後、1967年2月13日に、86歳で没した。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
終生、金持ちにはならず
天職に精進すると誓う
次に、私の人生観、処世観というものについて、少し述べてみたい。
私はいまから五十数年前、学校を出て実社会に入るに際し、私なりの人生設計を立てたが、その中で“終生富豪となることなしに、天職に精進しよう”と誓った。
私の姉妹や弟は、不思議にも、そろいもそろって金持ちの家と縁を持った。
弟の政輔は藤田財閥の一門、藤田小四郎の養子になってその家を継いだ。長姉すみは、三菱の大番頭だった木村久寿弥太に嫁ぎ、妹ふじは九州財閥の貝島太市に嫁ぎ、妹きよは久原房之助の妻となった。
みんな金持ちのところへ行っている。私は彼らから金持ちの裏話というか、いやらしい話を、散々聞かされた。
それで私は考えた。金持ちになってはいかん。金持ちになると自分を堕落させ、そればかりか家庭を乱し、人類全体に好ましからぬ悪影響を与える。だから、終生、金持ちにはなるまいと覚悟を決めたわけだ。
だが、仕事はやらなくてはならぬ。仕事は私の生まれつきの趣味で、好きで好きでたまらなかったのである。
だが、もうけようとか、財産をつくろうなんて考えて、仕事をしたことは一度だってない。
常に国家のために役立つ仕事。しかも、もうからぬ、あまり人の手を付けたがらない仕事を、好んでやった。
私が日産自動車で、初めて乗用車に手を付けたのも、当時、誰も乗用車、つまり大衆車をやらなかったからである。
政府も当時は、大衆車など見向きもしなかった。まして奨励などとんでもない。軍部に至っては真っ向から反対した。財閥の三井など、いくらか興味は持っていたようであるが、乗用車のような海のものとも山のものとも分からないような、危ない事業に乗り出す勇気はない。
だが私は、乗用車工業こそ、将来の日本に絶対必要であると確信し、たとえ損をしてでもやってやろうと決心した。幸い、ほかの事業が順調にいっていたので、5年間くらい損をしても構わないと考え、誰もやらない乗用車ダットサンを造った。これが、わが国における乗用車の始めである。いわば、最初のパイオニアというわけだ。