森下安道は終戦から間もなく、愛知県から東京へ上り、一代で「街金融の帝王」となった。戦後のカオスから高度経済成長期、さらにバブル景気とその後の失われた30年を生きてきた。日本社会の表裏を知り尽くした「バブルの王様」が、「謎の大阪出身の在日韓国人実業家」と欧州に向かったときの一幕を紹介する。(ノンフィクション作家 森 功)
※本稿は森功『バブルの王様 森下安道 日本を操った地下金融』(小学館)から一部を抜粋し再編集したものです。
紙袋で持ち込もうとした現ナマ1億円
新東京国際空港(現・成田国際空港)は激しい市民闘争の末の1978年5月、千葉県房総半島の中心部にある内陸空港として生まれた。成田空港はそこから羽田に代わる日本の空の玄関に位置づけられ、コロナ前にピーク時を迎えた2018年には、もっぱら海外へ向かう4260万人が利用している。
1970年代前半から日本航空(JAL)のオーダーメードツアーによる欧米旅行を恒例にしてきた森下安道も、羽田から成田に換えてここから世界に旅立った。アイチの秘書とともにヨーロッパやアメリカ、モナコ行きのファーストクラスに乗り込んだ。
バブル景気の始まった80年代後半に入ると、アイチの大名旅行メンバーには、武富士の武井保雄などのサラ金軍団ではない顔ぶれが加わった。その一人が許永中である。森下の話を元に、初めていっしょに欧州に向かったときの一幕を紹介する。
森下がアイチの幹部社員たちとともにファーストクラスのカウンターで待っていると、許が3人の秘書を従えて駆け寄ってきた。汗かきの禿げ頭に大粒の汗が光る。秘書はいずれも若く、男性が2人で女性が1人だ。そのうちの男性秘書が大きな手提げの紙袋を抱えていた。
「それは、いったい何かな」森下が紙袋に視線を向けた。すると、許が答えた。
「森下会長、なにせ初めてなので多めに持って来ましてん。現金ですわ、1億ほどある思います」
大阪港から韓国の釜山(プサン)港までつないだ「大阪国際フェリー」を就航させた許は、「謎の大阪出身の在日韓国人実業家」として売り出し中だった。