戦後最大の経済犯罪「イトマン事件」で暗躍し、ただ一人生き残った男の真相写真は絵画のイメージです Photo:123RF

森下安道は終戦から間もなく、愛知県から東京へ上り、一代で「街金融の帝王」となった。戦後のカオスから高度経済成長期、さらにバブル景気とその後の失われた30年を生きてきた。戦後最大の経済犯罪「イトマン事件」にも森下はかかわっていたが、逮捕も起訴もされていないのはなぜか。真相に迫る。(ノンフィクション作家 森 功)
※本稿は森功『バブルの王様 森下安道 日本を操った地下金融』(小学館)から一部を抜粋し再編集したものです。

住友銀行の“天皇”と愛娘

 すべては、1本の電話からはじまった。

「社長、東京の黒川さんからです」

 1989年11月、黒塗りのハイヤーが名古屋の高速道路を走っていた。唐突に自動車電話が鳴り、受話器をあげた運転手が、後部座席をうかがいながらそう告げた。

 電話の声は、黒川園子だ。ほかならぬ住友銀行の“天皇”、磯田一郎の一人娘である。

「河村さん、お久しぶり。園子ですけど、ちょっと頼みたいことがあって電話したんです……」

 園子は1948年生まれだ。根っからのお嬢さん育ちで、大学は同志社女子大に進んだ。40歳になったばかりの彼女が、甘えるように言った。

「どのようなことでしょうか。お急ぎの用件ですか」

「いや、それほど急ぎというほどでもないんですけど」

 電話口の園子はいつものように屈託のない口調だったという。

「実はね、河村さん、私いま仕事で絵を扱っているんです。いい絵なんだけど、どこか売り先を知らないかしら」

 園子は西武セゾングループの高級美術品・宝飾品販売会社「ピサ」に、嘱託社員として勤務していた。「ピサ」は堤清二の実母が設立した会社である。それだけにグループ内でも特別な位置づけとして一目おかれていた。東京プリンスホテルに本店を構え、堤清二自ら会長に就任していた時期もある。

 園子は1度結婚に失敗して出戻ったのち、再婚していた。黒川は再婚相手の姓だ。夫がブランド衣料販売の会社を経営し、「ピサ」と取引していた。出来の悪い子供ほど可愛いと言われるが、父・磯田にとって、この長女もその類だったのかもしれない。磯田は娘婿の面倒までよくみた。磯田の娘夫婦にとって「ピサ」は大事なお得意さんであり、そうした関係から園子自身「ピサ」で絵画取引に携わっていたのである。しぜん、イトマンの河村良彦も、磯田から娘の働いている「ピサ」の絵画取引のことを聞かされていた。

 元来、イトマンは絵画を扱ってはいなかった。ところが、この磯田の愛娘からの1本の電話を境に、不透明な絵の世界に手を染めていくのである。