ラテン語こそ世界最高の教養である――。歴史、哲学、宗教のルーツがわかると大きな話題になっている『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』。著者は、超難関試験を突破し、東アジアで初めてロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士になったハン・ドンイル氏。彼に貴重な特別インタビューを行った。極貧生活から猛勉強し、イタリア留学、そしてロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士になった経緯を尋ねた。(取材・構成/岡崎暢子)
人生を変えた父の言葉
――ハン先生は生まれてから70~80年代を韓国で過ごされていますが、どんな子ども時代だったのでしょうか?
ハン・ドンイルさん(以下、ハン) 子ども時代はとにかく貧しく、つらかった記憶しかありません。私の父は失郷民(※朝鮮戦争の際に、北朝鮮から韓国に避難して戻れなくなった人々)で苦労はあったと思いますが、アルコールに溺れ、私たち一家は日も差さないような家に暮らしていました。私など、高校卒業するまで弁当もろくに持って行けず、水だけを飲んでやり過ごしたこともありました。
両親の口論が絶えず、気が休まることがなかった。貧困は相手を理解しようという余裕も奪うのでしょうか、私の心の中にも両親に対して大きな障壁をめぐらせていました。しかしある時、子どもながらにこんなことを思いました。
「私の父と母は、私という人間をこの世に生み出したことだけで、果たすべき役割はすべて終えたのだ」
こう考えるようになってから、気持ちが急速に安らかになっていきました。そんな父でしたが、私に唯一遺してくれた遺産があります。
それは「本をよく読み、知識を得、深く理解せよ」ということです。
父は折に触れ、私に「リンカーンなど世界の偉人たちがどのように学んで活躍してきたのか、読書を通じて知識を得ることの大切さ」を説いていました。もちろん少年の私にとっては疎ましく、「きれいごとなんか言ってないで酒を止めて金でも稼いできてくれよ」と思っていたものですが(笑)。
中学1年生の冬、苦学してハーバード大学へ入学したという近所のお兄さんの家に遊びに行ったのです。貧しい家々がひしめく町内でしたが、彼の部屋にはたくさんの本があり、中には英語で書かれたものもありました。それを手に取ったとき、「どうしてもこの本を読んでみたい」という気持ちがむくむくと湧いてきました。英語の本が、貧しい暮らしとは別世界にいざなってくれるような気にさせてくれた。
そこから本書にも記したとおり英語の勉強に励むようになりましたが、それで私の人生が劇的に変わったわけでは、残念ながらありません(笑)。相変わらず両親に腹を立てたりしながら、イライラしたらグラウンドを走ったり、聖堂へ行ってお祈りをしたりして過ごしました。
――貧しい境遇にあった先生がイタリア留学を志したのは、どんなきっかけがあったのですか?
ハン 高校卒業後、同級生たちは大学へ進学しましたが、貧しい私は全額奨学金でまかなえるところを探しました。限られた選択肢の中から、天主教のイエス御受難会(passionists)という神学校を選びました。イエスの苦難を学び、身をもって経験しようというところで、礼拝や神学を学ぶ以外にも水・金・土曜日には断食が行われ10代の男子には厳しい日々を送りました。
在学中に兵役を終え、その後、紆余曲折あって、2000年から釜山で司祭を務めることになりました。ローマへ留学することになったのはその時です。イタリアというのは私の意思ではなく、釜山教区の司教の指示によるものです。当時の天主教の組織というのはまるで軍隊のようでして(笑)、司教の命令は絶対的で反論の余地などありませんでしたから。
翌年(01年)にローマに留学し、学問に勤しみました。そこで周囲も驚く速さで単位を修得していき、2003年に修士、2004年に博士課程が終了しました。3年間という異例の短期間、しかもスムマ・クム・ラウデ(最優等)で修了したのです。
しかし、ここで問題が生じました。釜山教区としては、私が教会法を修めて博士となって帰国することを望んでいたのですが、バチカンの考えは違いました。バチカンでは、成績優秀な東洋人という希少な存在の私をさらに学ばせたいと考え、ロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の受験を強く勧めてきました。
釜山教区とバチカンの板挟みとなった私は、大いに悩みました。34歳でした。韓国に戻ればそれなりの地位も保障され安泰に暮らせるでしょう。しかし私は、その選択肢を選んだ後、50代になったときの自分の姿を想像してみました。きっと、30代でロタ・ロマーナにチャレンジしなかったことを後悔しているだろうと思いました。
結局、私はロタ・ロマーナに挑むいばらの道を選択したのですが、それによって釜山教区からの留学資金は断たれることになりました。資金がなくては何も続けられません。ところが不思議なもので、当時、偶然出会った、私が「育ての母」と呼んでいる方々のおかげで、無事に学びを続けることができたのです。
彼らは英親王(※李垠)の妻である李方子女史の通訳を務めるほどの地位にあった方で、当時の富裕層が聖堂などに寄付をしていたように、「自分たちはハン・ドンイルという人間に寄付する」とおっしゃって手を差し伸べてくださったのです。どんなときも希望を捨ててはいけないと、このときに強く思いました。
【大好評連載】
第1回 「お金があっても満たされない人」を救う3つの言葉
第2回 とてつもなく頭のいい人がやっている「最高の読書法」
第3回 世界一難しい!? バチカン裁判所のすごい採用試験
ハン・ドンイル
韓国人初、東アジア初のロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士。ロタ・ロマーナが設立されて以来、700年の歴史上、930番目に宣誓した弁護人。
2001年にローマに留学し、法王庁立ラテラノ大学で2003年に教会法学修士号を最優秀で修了、2004年には同大学院で教会法学博士号を最優秀で取得。韓国とローマを行き来しながらイタリア法務法人で働き、その傍ら、西江大学でラテン語の講義を担当した。彼のラテン語講義は、他校の生徒や教授、一般人まで聴講に訪れるようになり、最高の名講義と評価された。その講義をまとめた本書は韓国で35万部以上売れ、ベストセラーとなった。
ラテン語を母語とする言語を使用している国々の歴史、文化、法律などに焦点を当て、「ラテン語の向こう側に見える世界」の面白さを幅広くとり上げている。ロタ・ロマーナの弁護士になるためには、ヨーロッパの歴史と同じくらい長い歴史を持つ教会法を深く理解するだけでなく、ヨーロッパ人でも習得が難しいラテン語はもちろん、その他ヨーロッパ言語もマスターしなければならない。加えて、ラテン語で進められる司法研修院3年課程も修了しなければならない。これらの課程をすべて終えたとしても、ロタ・ロマーナの弁護士試験の合格率は5~6%にすぎない。現在は翻訳や執筆を続けている。
著書に『法で読むヨーロッパ史』『カルペラテン語総合編(語学教材)』『カルペラテン語韓国語辞典』『ローマ法事典』『信じる人間に対して:ラテン語の授業2番目の時間』があり、『東方カトリック教会』『教父たちの聖書注解ローマ書』『教会法律用語辞典』などを韓国語に訳した。
【編集部からのお知らせ】
『教養としての「ラテン語の授業」』とは?
本書は、東アジアで初めてロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士となったハン・ドンイル氏が行った「ラテン語の授業」を整理したものだ。
彼の授業は、単なる語学の授業ではなく、総合人文科学の授業に近い。西洋文明の源流ともいえるラテン語を通して、歴史、哲学、宗教、文化、芸術、経済など多くのことを学べる。
監訳を担当した東京大学名誉教授である本村凌二氏も「ヨーロッパ各国の歴史、文化、法律に焦点を当て、ラテン語を通して見える世界の面白さを幅広くとり上げている」とコメントしている。
読売新聞読書委員、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授などを歴任した若松英輔氏も「言葉はレンズである。古い言葉を通して世界を眺めるとき、古びることのない叡知がよみがえる」と絶賛している。
本書目次より
日本語版刊行に寄せて──叡知の貯蔵庫としてのラテン語
Lectio I 胸に秘めた偉大なる幼稚さ
――Magna puerilitas quae est in me
・ラテン語はなぜ難しいのか?
・レオナルド・ダ・ヴィンチがラテン語を猛勉強した理由
・「偉大なる幼稚さ」を大切に
Lectio II 最初の授業は休講します
――Prima schola alba est
・学問とは「人間と世界を見つめる枠組み」を作る作業
・ローマ人のシンプルな教育制度
・あなたの心の陽炎を見つめてください
Lectio III ラテン語の品格
――De Elegantiis Linguae Latinae
・「否定」の概念は“夜に流れる水”から生まれた
・ラテン語はインド・ヨーロッパ語族に属している
・古代の人々は「母」という概念をどう考えたか?
・ピタゴラスはインドの思想に影響を受けていた
Lectio IV 私たちは学校のためではなく、人生のために学ぶ
――Non scholae sed vitae discimus
・赤ちゃんに学ぶ「言語学習の本質」
・ラテン語の発音からヨーロッパ社会を学ぶ
・発音からすけて見える「ヨーロッパ人のプライド」
Lectio V 長所と短所
――Defectus et Meritum
・長所と短所の「語源」から見えてくるもの
・自分の短所と目をそらさずに向き合う
・ラテン語の名句に学ぶ「捨てる勇気」
Lectio VI ひとりひとりの“スムマ・クム・ラウデ”
――Summa cum laude pro se quisque
・奥深いラテン語の名詞
・真の教育とは、勉強したくなる動機を与えること
・ラファエロの絵画と神秘主義
Lectio VII 私は勉強する労働者です
――Ego sum operarius studens
・ラテン語「エゴego」の役割
・習慣の語源が教えてくれること
・「勉強する労働者」は挫折を楽しむ
Lectio VIII カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい
―― Quae sunt Caesaris Caesari et quae sunt Dei Deo
・イエスの使徒パウロとローマのかかわり
・キリスト教がここまで普及した理由
・キリスト教における「政治と宗教の分離」
Lectio IX たとえ神がいなくとも
――Etsi Deus non daretur
・法学者グローティウスの主張
・聖書は弟子たちによる“授業ノート”か
・人が哲学や倫理を求めた理由
Lectio X 与えよ、さらば与えられん
――Do ut des
・「あなたが私に施したから、私もあなたに与えよう」
・「相互主義」という国際ルールの起源
・人生は、他者を思いやることで完成する
Lectio XI 時間は最も優れた裁判官である
――Tempus est optimus iudex
・時間にまつわるさまざまな言葉
・長い時間をかけて辞典を作り、悟ったこと
・古代ローマ人は「幸せ」をどう考えたか?
Lectio XII すべての動物は性交後にゆううつになる
――Post coitum omne animal triste est
・絶望の日々をどう乗り越えたか
・ラテン語の名句を英単語と照らし合わせる
・「期待した瞬間」が過ぎさると、人間は絶望する
Lectio XIII あなたが元気なら、よかったです。私は元気です
――Si vales, bene est; ego valeo
・古代ローマ人のあいさつ
・郵便は軍事目的でも使用されていた
・「あなたが安らかであってこそ、私も安心できる」
Lectio XIV 今日は私へ、明日はあなたへ
――Hodie mihi, Cras tibi
・死をくぐり抜けた人間は、どんな香りを放つのか?
・古代ローマの葬儀
・人間は、他者に残された記憶によって香りを放つ
Lectio XV 今日を楽しみなさい
――Carpe diem
・名句Carpe diemは農業に由来する言葉
・今日を我慢し、節制するのは美徳なのか?
・ローマ人たちも「過去」に縛られていた
Lectio XVI ローマ人の悪口
――Improperia Romanorum
・ラテン語の「洗練された悪口」
・「神聖な」「呪われた」という2つの意味が混在する言葉
・「心の言葉」に耳を澄ませよう
Lectio XVII ローマ人の年齢
――Aetates Romanorum
・ヨーロッパ言語が「水平型言語」である理由
・イタリア人に受け継がれた「寛大な精神」
・学びとは、自分だけの歩き方を学ぶこと
Lectio XVIII ローマ人の食事
――Cibi Romanorum
・「私を上に引っ張り上げる」ティラミス
・古代ローマ人の一日の食事
・宴がわかれば、ローマの文化がわかる
・同性愛を禁止した合理的な理由
Lectio XIX ローマ人の遊び
――Ludi Romanorum
・ローマ時代のさまざまなゲーム
・セネカが軽蔑した「円形闘技場の熱狂」
・高度な技術力に支えられた公共浴場
Lectio XX 物事は、知っているものしか見えない
――Tantum videmus quantum scimus
・ムッソリーニが標榜した「偉大なイタリア」
・カエサルが暗殺された場所
・自分が知っているものしか目に入らない
Lectio XXI 私は欲望する。ゆえに存在する。
――Desidero ergo sum
・スピノザとデカルトの違い
・満足とは「十分に何かをする」こと
・人間が作り出した最高の仮想が、人間を苦しめている
Lectio XXII 韓国人ですか?
――Coreanus esne?
・「国」という概念はいつから生まれたか?
・「天才教授の怒り」忘れられないエピソード
・「私たちはみな同じ人間」という真実
Lectio XXIII しかし、今日も明日も、またその次の日も、私は進んで行かねばならない
――Verumtamen oportet me hodie et cras et sequenti die ambulare
・sex の由来は数字の「6」だった
・単語ひとつに思想が反映される
・勉強の由来は「心から望む何かに力を注ぐこと」
Lectio XXIV 真理に服従せよ
――Obedire Veritati!
・世界の問題を「世俗の学問」の力で解決する
・ボローニャ大学の果たした役割
・真理を解くカギは「宗教」にある
Lectio XXV みな傷つけられ、最後は殺される
――Vulnerant omnes, ultima necat
・古代ローマでどのように医学が発展していったか?
・心と体を傷つけるのは、他者ではなく、自分自身
Lectio XXVI 愛しなさい、そしてあなたが望むことを行いなさい
――Dilige et fac quod vis
・砂漠とは、神への信仰が深まる場所
・タクラマカン砂漠の洗礼
Lectio XXVII これもまた過ぎゆく
――Hoc quoque transibit
・今日できることは明日に延ばそう
・「朝、自分に微笑みかける」という課題の真意
・うれしいことをしっかり嚙みしめる
Lectio XXVIII 命ある限り、希望はある
――Dum vita est, spes est
・今の人生を送るか? 完璧な世界で新たな人生を送るか?
・希望の語源は「期待して望む」
・死と直面して悟ったこと
・感謝の言葉
・監訳者あとがき