豊田章一郎

 先ごろ亡くなった豊田章一郎(1925年2月27日~2023年2月14日)は、トヨタグループの始祖である発明王、豊田佐吉を祖父に持ち、豊田自動織機製作所に自動車部を設け、トヨタ自動車工業を創業した父・喜一郎と、高島屋創業者の飯田新七(4代目)の娘である母・二十子の間に生まれた豊田家の長男である。ただ、喜一郎からトヨタに入れとは一言も言われなかったし、自分もその気はなかったと自著で明かしている。

 ところが1950年、前年に行われた財政引き締め政策(ドッジ・ライン)の影響による不況でトヨタは経営危機に陥り、大規模労働争議も発生して喜一郎が社長を引責辞任。間もなく52年に喜一郎は死去する。章一郎は終戦後、学業の傍らでトヨタから派生した住宅事業や親戚が営むちくわ工場を手伝っていたが、父の葬儀の直後、トヨタ自動車工業の後任社長となった石田退三から請われて、トヨタに入社することになる。

 80年代に入り、欧米との貿易摩擦が激化する中、81年に発足した米レーガン政権は対米自動車輸出に自主規制を設けた。トヨタをはじめとする日本の自動車メーカーは日本からの輸出ではなく、現地生産にかじを切ることを余儀なくされる。トヨタは50年の経営危機の際に、銀行からの要請でトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売に分割されたが、82年に両社は生産と販売が両機能を一元化させる“工販対等合併”を行った。そのときに生まれた今のトヨタ自動車で初代社長となったのが章一郎である。

 85年のプラザ合意以降の円高進行で、海外生産がさらに急務となり、章一郎が率いるトヨタはゼネラル・モーターズ(GM)と北米での合弁生産を開始。その後、多くの企業が工場の海外移転を進め、「空洞化」懸念が日本経済のキーワードになる。今回紹介するのは「週刊ダイヤモンド」1989年1月14日号に掲載された章一郎のインタビューだ。バブル期の真っ最中ではあったが、89年以降もこの勢いが持続するのか、そして“ものづくり日本”の空洞化は今後も続くのか、日本自動車工業会の会長でもあった章一郎に見通しを聞いている。現地生産によって米国向け輸出は減るかもしれないが、これからモータリゼーションを迎えるその他の地域を伸ばしたり、国内の需要を堅調に保つことで、空洞化は防げると章一郎は話している。

 残念ながら、91年以降のバブル崩壊で国内乗用車市場は縮小するのだが、それとは別に、国の枠を超えマーケットの近くで事業を行うこと、あるいは為替や製造コストの面でメリットを享受できる場所での調達・生産は、自動車産業に限らず常識となった。その結果、連動性のある国際分業も進んだ。一方で、「日本で作って海外に売る」という単純な経済モデルを「守る」ための明確な処方箋など見当たらないことも、今のわれわれは知っている。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

予想をはるかに上回る
国内市場の伸び

「週刊ダイヤモンド」1989年1月14日号1989年1月14日号より

 1988年の国内総需要は、登録車ベースで500万台に少し足りない程度。年初には440万台か450万台くらいだろうと思っていたんですからねえ。

 ですから私どもも、191万台という目標を年初に立てたんですが、途中で修正しまして、もっと増やさなくちゃいかん、と210万台に変更したわけですよ。結果的には213万台くらいまでいきましたけどね。

 それでも、シェアはダウンしたんですよ。世間の伸びくらいは増えたかったんですが、私どもは、どうも生産のフレキシビリティーが足りなかった。多年の望みの200万台をはるかに突破したんですから、まあいいことはいいんですが、他社の方がもっと伸びた、ということですな。

 ですから、国内市場の伸びは、私どもの予想をはるかに上回っていたんですね。それはやはり、内需拡大の効果が出てきたんじゃないでしょうかね。前川リポートで、産業構造の変換をしなくちゃいかん、輸出依存の体質を少し改めよう、国内の比率を増やしていこう、それも長期的に対応していかなくちゃならんと。ま、公共投資をしていってほしいと言ってきたんですね。