日本人の「意見表明が苦手」の克服法、イェール大学元助教授が伝授写真はイメージです Photo:PIXTA

「意見表明が苦手」とされている日本人。だが、米イェール大学元助教授の斉藤淳氏によれば、その点において日本人が過度に自虐的になる理由はないという。その真意と、よい「思考」の持ち方について、斉藤氏の著書『アメリカの大学生が学んでいる本物の教養』(SB新書)より一部を抜粋・編集して紹介する。

意見をもつのが苦手になる
日本の教育の問題

 日本人は一般的に意見をもつことも、意見を表明することも苦手とされています。

 なぜかといえばシンプルな話で、個々が意見をもちはじめると、管理しづらくなるからでしょう。つまり一番は教育の問題です。日本の子どもたちは「生徒を管理しやすいように」という教師側の都合により、意見をもったり、意見を表明したりする訓練を受ける機会に乏しいのです。

 古来、水田稲作に勤しんできた農村共同体のなかで、日本人の価値規範が構築されてきたという背景も無視できないかもしれません。

 農村共同体では、周囲の人たちと和合しなくては田んぼに水を引くこともできなければ、田植え・収穫シーズンに助け合うこともできない。まさに「和をもって貴しとなす」が死活問題でした。とかく協調性が重んじられ、「人に迷惑をかけてはいけない」と教えられるのは、こうした社会的背景の影響も大きいでしょう。

 それは一面では日本人の尊い美徳といえます。しかし、その反面、いわゆる「同調圧力」に抑圧されて、自由にものを考えたり、意見を表明したりできない日本人を量産してきたことは否めないのです。

 特に現代という時代にあって、たとえばビジネス、あるいは政治・経済について国際社会で交渉をまとめ上げる局面では、日本人同士では美徳として通用する価値観が不利に働いてしまうでしょう。意見を出し合い、議論することでしか、交渉をまとめ上げることはできないからです。

 たとえばアメリカの小学校などでは、「Everybody is different(人はみな違う)」という教育が根付いています。

「それぞれが個性的な存在である」ということを幼いころから徹底的に教え込まれ、だからこそ「何が自分の個性なのか」を表現する訓練を受ける。ことあるごとに「あなたはどう思うのか」と問うのが、アメリカの教育です。横並び思想で覆われた日本の教育とはかなり様相が違います。

 こう言うと、日本の社会や教育を全否定しているように聞こえるかもしれませんが、それは本意ではありません。

「アメリカでは~」「ヨーロッパでは~」と、何かに付けて海外(特に欧米)を引き合いに出す「出羽守(でわのかみ)」は、私がもっとも軽蔑している、知性に欠ける態度の1つです。

「Everybody is different」という教育が根付いており、私たちから見ると「自分の意見がはっきりしていて議論好き」というイメージが強いアメリカ人ですら、議論して合意に達するのは一苦労です。