ストレスなどによって免疫系が過剰に刺激され、ウイルスや細菌に感染しているわけでもないのに白血球が異物を排除しようと正常な細胞を攻撃し、発熱や炎症が起きるのが自己免疫疾患だ。近年の精神医学の大きな進歩で、同じことが脳でも起きており、さまざまな精神疾患の原因となる仕組みがわかってきた。この新しい知見によれば、うつ病も、アルツハイマー型認知症も、ASD(自閉症スペクトラム症)のような発達障害も、(すくなくともその一部は)脳の炎症によるものだ。
アメリカの科学ジャーナリスト、ドナ・ジャクソン・ナカザワの『脳のなかの天使と刺客 心の健康を支配する免疫細胞』(夏野徹也訳、白揚社)は、この「精神医学のパラダイム転換」をテーマにした刺激的な科学ノンフィクションだ。原題は“The Angel and the Assassin: The Tiny Brain Cell That Changed the Course of Medicine[天使と刺客 医学(内科学)の道を変えた脳の小さな細胞]”。この風変わりなタイトルは、これまでほとんど関心をもたれなかった脳の細胞ミクログリアが、脳を守る「天使」になることもあれば、脳を破壊する「刺客」にもなるという両義性を表している。
「医学史に訪れた最大のパラダイムシフト」
2008年に発表された研究では、多発性硬化症の患者は記憶能力に変化が起こり、この疾患のない対照群に比べてうつ病性障害や双極性障害にかかる割合が数倍高くなることが明らかになった。
2010年には17件の研究によって、各種の臓器に炎症が生じる全身エリテマトーデスの患者は、うつ病などさまざまな精神疾患を併発する可能性がきわめて高いことがわかった。56%の患者が集中障害や気分障害、うつ病、全般性不安障害、学習障害などの認知的または精神医学的な症状を報告し、初期の認知症を併発していたこともあった。
また同年、300万人の健康診断データを30年間分調べたところ、細菌感染で入院したばかりの患者はうつ病や双極性障害、記憶障害を経験するリスクが62%高かった。
複数の症例研究で、骨髄(身体の免疫細胞のほとんどを産生する)の異常と統合失調症との関係が示されている。ある症例研究によれば、統合失調症を患う兄弟から骨髄移植を受けた患者は、移植のわずか数週間後に統合失調症を発症した。別の症例研究によれば、統合失調症の急性骨髄性白血病の若年患者が健康なドナーから骨髄移植を受けると、統合失調症も治った。
これは本書の冒頭で紹介されている印象的なケースだが、こうしたエピソードをいくら集めても、なぜそうなるかの疑問に答えることはできなかった。身体の免疫システムは血液脳関門(脳の出入口となる血管のまわりに集まった細胞がつくる複雑な組織)の障壁を通過できず、そのため脳は免疫機能をもたないとされてきたからだ(脳の「免疫特権」と呼ばれる)。
ところが2012年、これまでほとんど注目されたことのなかった脳内の小さな細胞であるミクログリアが、「脳内の白血球」として機能しているという革新的な研究が現れた。そればかりか、脳内のミクログリアは直接または間接に身体の免疫細胞と「会話」していることもわかってきた。
身体に炎症が生じると、ほとんど必然的に脳内の免疫にも変化が生じ、それが認知的な異常や神経精神医学的な異常として現れる可能性がある。ナカザワはこれを、「医学史に訪れた最大のパラダイムシフト」だという。これまでの精神医学の常識は根底から書き換えられようとしているのだ。