1921(大正10)年9月28日、安田財閥(現芙蓉グループ)の始祖、安田善次郎は、自宅に押し入ったテロリストの凶刃に倒れた。享年82。犯行動機は、善次郎が巨万の富を築き上げながら、社会的な責任を果たしていない、よって天誅を下さなければならない、というものだった。

 このテロリストの弁が一人歩きしたことで、善次郎は金の亡者、守銭奴というイメージがついてしまった。しかし、こうした評価は事実に反するものであり、実像から大きく外れている。

安田善次郎<br />「銀行王」と呼ばれた男の素顔

 では、安田善次郎とは何者か。1838(天保9)年、富山藩下級武士の子として生まれ、大商人になるという大志を抱いて江戸に出る。奉公人として商売のイロハを学ぶと26歳で独立し、乾物と両替を商う安田商店を開業。これを安田銀行(のちに富士銀行、現みずほフィナンシャルグループ)へと発展させ、その後は、現在の損害保険ジャパンや明治安田生命保険、東京建物などを設立する。その傍ら、日本銀行の理事を務めたり、横浜正金銀行(のちに東京銀行、現三菱UFJフィナンシャル・グループ)の救済、北海道拓殖銀行や日本興業銀行(現みずほFG)の創立などに関わったりするなど、まさに「銀行王」という二つ名にふさわしい傑物であった。

 その個人資産は、国家予算が約16億円の時代にあって、2億円を超えていた。まさに桁違いの資産家であり、前述のように逆恨みされるのも無理からぬ話かもしれない。しかし実は、篤志家(とくしか)であり、東京大学大講堂(通称安田講堂)や日比谷公会堂の建設費の寄贈をはじめ、早稲田大学などへの寄付、東京都の慈善事業への支援、天災や戦災の被害者の救済など、けっして吝嗇家(りんしょくか)ではなかった。ただし、武士の端くれであった父の口癖の「陰徳」を信条としたことから、彼の善業は世に知られずにいた。

 そして、善次郎の座右の銘であり、これも父から学んだ「克己勤倹(こっききんけん)」を励行した。当時はまだ算盤しかない時代にもかかわらず、彼の複利計算の能力はあたかもコンピュータのごとしで、しかも実務の中で培われた金融知識の幅と厚みはまさしくプロフェッショナルならではのものであった。大蔵省(現財務省)の要職を務めた渋沢栄一も、善次郎の前ではただただ頭(こうべ)を垂れるだけの存在だった。

 善次郎の一日は、みずから帳簿を整理し、どんなに遅くなろうと日記を書くことで終わる。これを30余年間にわたって欠かさず続けていた。また、いまで言うメモ魔で、膨大な手控(てびかえ)が残っている。これらは単なる備忘録に留まらず、振り返っては日々の業務に活かしていた。

 善次郎がいかに克己勤倹の実践者であったかを物語るエピソードの一つに、安田商店を開業した時、大好きだった酒とたばこを断ち、「三条の誓い」──「一、独立独行。他人の力を当てにしない」「二、嘘は言わない。誘惑に負けない」「三、支出は収入の十分の八にとどめ、残りは貯蓄する」──を立て、これを生涯守り通したというものがある。

 こうした自己規律と勤勉さゆえなのであろう、善次郎は失敗といえるような失敗を一度も犯していない(かと言って、大僥倖と呼べるような成功もない)。

 拙著『安田善次郎』(ミネルヴァ書房)の副題は「果報は練って待て」である。もちろん善次郎の言葉である。彼はビジネスに運が付き物であることを認める一方で、常に人事を尽くすことを忘れなかった。つまり、何事も考えに考え、検討に検討を重ねたうえで運を待った。

 善次郎はこう残している。「『運はハコブなり』である。すなわちわが身でわが身を運んでいかなければ、運の神に会うことも運の神に愛せられることもない。運は確かにこの世に存在しているものとすれば、そこまで自分が行って、それを手に入れる。それがすなわち『運はハコブなり』である」

◉構成・まとめ|岩崎卓也 表紙イラストレーション|ピョートル・レスニアック

謝辞|本イラストレーションの制作に当たっては、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの写真を使用しています。