東大と京大の違いを「両利きの組織」から読み解く東大と京大の違いを「両利きの経営」に照らして考える Photo:PIXTA

イメージだけではない
「東大は生真面目、京大は自由」

 よく、真面目な東大生に対して、京大生は変人と呼ばれるのを好むと言われることがある。

 自由な学風というのは現在筆者が奉職している早稲田大学にも通じるところがあり、京大出身の自分としては水の合う大学で仕事をさせてもらっている。なので、自分自身京大の自由で良くも悪くも適当なカルチャーは嫌いではない。

 しかし、たまに「東京出身なのに京大なのはやっぱり京大の学風に憧れて?ノーベル賞学者が多いのも京大だしね」などと、なんというか、若干慰め的な言葉をかけられるのだが、もちろん私だって東大に受かっていたら東大に行っていたであろう。

 高校生が選ぶ大学の志望動機などそれくらいミーハーなものであるし、「いや、自分は東大のこれこれが嫌で京大を選んだんだ」なんていうのは、負け惜しみにしか聞こえないと思っている。

 という長ったらしい前置きをして、あえて東京大学と京都大学の違いというテーマの記事を書いてみようと思う。それも経営学の最近のバズワードである「両利き」を使って、両者の特徴を明らかにしたい。

 一般的なイメージとして、東大にはかちっとした真面目なイメージがあり、京大には自由と言えば聞こえがいいが、サブカル的な変人が多いイメージがある。これはイメージだけではなく、制度的にその通りなのだと思う。

 日本の4年制大学の基本的な建付けとしては、前半の2年間で一般教養の単位を取得、後半の2年間で専門科目やゼミを習得して、それぞれの学部の専門の学位(学士)が授与されるという仕組みになっている。これは、学部のような縦割り組織がなく、学部生の間は文系も理系も関係なく幅広く様々な分野を学習しながら、ゆるやかに自分の専攻(メジャー)や副専攻(マイナー)を決めるアメリカの教育とは異なっている。

 いや、アメリカの制度と戦前まで日本がお手本にしていた欧州の大学の制度を足して二で割ったのが、前半の一般教養、後半の専門科目という現在の日本の大学制度といえる。そのため、戦後すぐに、新制大学に移行する際に一般教養を教える組織を必要とした大学が、旧制高校を吸収合併したケースもある。現在の東大の教養学部は旧制第一高校であるし、京大の教養部、現在の総合人間学部は旧制第三高校であった。