日本特有の「察する文化」による弊害

出口:これだけ世の中のグローバル化が進んでいても、日本は未だに「察する文化」です。

 それは「言語」の特性が影響していると思っています。

 たとえば、英語であれば、疑問詞が先にくる、肯定か否定かが先に明示される。これは、相手が察してこないことを前提とした言語だと思います。

 日本語では、文の最後で「か」がついたら疑問文になり、「ない」と言われたら否定ですべてがひっくり返る。

 でも、私たちが会話するときにそれを疑問に思わないのは、互いに「相手が察してくれる」という前提があるからです。

 「日本語」という言語の特性そのものが、「察する文化」を必要とするのです。

 だから、どこに自分の不満の原因があるのか、これを論理的に相手に説明しようという姿勢を放棄してしまいます。

 たとえば、「ムカつく」という一言で察してくれと片づけてしまう。

 そして、察してくれなかったら、相手が悪い。

 そのような日本の文化的な背景があって、ますます国語というものが理解されづらい、不幸な環境にあると思います。

星:日本では、子どもたちは察してくれる人たちと暮らしています。

 同じような地域からきた、同じような生活習慣の、同じような偏差値の人たちが周りに集まっていくような教育システムになっている。

 その中にいれば、ある程度の考えや感情が共有できてしまう。

 「うざい」「やばい」と言って、その感覚がなんとなく共有できるのは、同質社会が原因のひとつだと思います。

 しかし、これからのグローバル社会、AI時代では通用しなくなります。

 本来は、伝えるために考えることによって語彙も増え、論理的な思考力もついていくのに、「察する前提」があることでそれを養っていく機会が減ってしまいますね。

出口:その通りです。ですから、もともと言語の論理性、他者意識が強い欧米に対して、日本はある程度教育でシステマティックにそうした力を習得していかないといけないのです。

 ところが、今の教育にはそういった視点が欠けている。

星:「論理」というものは、意見や見方が違っても「共通して合意できる部分」です。

 人と人とが違う意見を持ちながらも共通のグラウンドに立っていられる、そんな関係性を構築していくためのもの。ですから、先生のおっしゃっている、人間性の誤差に論理学が大事であるということが非常にマッチしていると感じます。

 人と人が話せば全然意見も見方も違うのに、論理の部分は共通の構造として理解し合えるということですよね。

出口:素晴らしいです。私は自著ではあえて、「論理とは人間に対する最後の求愛だ」と言っています。

 お互いに考え方も価値観も違う人間が、コミュニケーションをするための唯一の、世界共通の武器です。

 その武器を持っていかないと、この社会で生き抜くことが難しいと思います。

星:ありがとうございます。

 明日の後編では、「子どもの論理力を養うために親がすべきこと」や、出口先生が実践されている「幼児向けの論理力の授業方法」などについてお話しいただきます。お楽しみに!

 『スタンフォード式生き抜く力』には子育てをするときに、大切なマインドセットと具体的なトレーニング法が書かれています。私の初の著書として出し惜しみなく、書き尽くしましたのでぜひご活用ください。