東北の山菜に感じるルーマニアのノスタルジー
何年か前に、父親がたまたま山菜の季節に来日した時のことを思い出す。近所のお母さんから山菜の詰まった袋をもらって天ぷらにした。
山ウドをはじめて口にした父は、「肉みたいだけど肉よりおいしい」と言った。たしかに肉のようなおいしさだ。山菜とは世界の肉だ。世界の肉は苦いし、濃い緑色をしている。食べると身体も緑になるが、この世で一番おいしいものなのだ。四月中旬になると、各道の駅では、山ウド、タラの芽、こしあぶら、コゴミ、ボンナ、ねまがりだけ、しどけ、うるい、かたくり、にりんそう、ハンゴンソウの芽などを売っている。名前はおまじないの言葉みたいで私の身体に音からなじむ。白い冬の後にくる緑の波のイメージが私の脳を鮮やかにする。
記憶をたどると、この濃い緑は子供のころから味わっていた。春先に、ルーマニアではイラクサの若芽を食べていた。津軽ではアイコと呼んで、食べる。農作業で手の皮膚が固くなっていた祖母は素手で採って煮て、ポレンタと一緒にお皿にもりもりのせていた。イラクサの濃い緑のペーストと鮮やかな黄色のポレンタの組み合わせは美しかった。伝統的な陶器の食器と木のスプーンも自然のもので、復活祭の前の食事に欠かせない一品だった。
こういう暮らしにノスタルジーを感じる自分がいるからこそ、毎年この時期に山菜の天ぷらを永遠に揚げる。こういう時に私は本当に幸せだと思う。解放されるから。いろんなことから、いろんな人から、いろんな世界から。私と山菜と家族の小さな物語をリピートで再生するコツを見つけたわけだ。
休日にいろんなことを考えながら、七号線で秋田へ向かった。山菜を探しに。ラジオから昭和の名曲が流れ、道沿いでは山桜と梅の花が終わりを迎える中、ニシンの歌の中のニシンが光る海と桜の景色が同じに見えた。夫は空海と道元の思想を説明してくれる。あっという間に二ツ井に到着。縄文時代の面と古代の杉の木が飾ってあるところで、今月が誕生日だった私は、おまけのハートがついているソフトクリームを買う。子供たちは大喜び。

イリナ・グリゴレ 著
読んだばかりのジャン=リュック・ナンシーの本『フクシマの後で』を思い出す。カントは「人間とは何か」が答えられないというが、今日は私たちが答えなければならないとナンシーはいう。私も一番知りたいことだ。二ツ井のきみまち坂の写真を見ながら、なんとなくこういう時期が来たと思った。恐怖からの解放、いろんなものからの解放のために、この問いが必要になってくる。山菜と同じで、味が苦いかもしれないが。
オオカミの眉毛という道具がほしい。先日、夢の中で恐ろしい鬼の頭が道端に落ちていた。はっきり見えて、頭の皮膚が裏返しに剥けて叫んでいた。『鬼滅の刃』の社会現象が、私の夢にまで延長していたと少し驚いたが、そういう時期なのかと改めて思った。これから苦い啓示の時代なのかな。