子どもの頃の原体験が田園風景を再生に導く

 前回、オルチャ渓谷の変遷において50年代以降、イタリアの農村の風景が大きく変わっていったと説明しました。イタリア政府が農家の自立を促し、それができなかった人たちは離農して都市へ職を求めたのです。それと並行して、農地が高度経済成長を支える工業団地や新興住宅地の用地として汎用化されました。この現象の真っただ中にいたのがクチネリ一家です。少年ブルネロは、電気があって、テレビも見られる郊外の新興住宅街で日々を過ごすことになりましたが、それは彼にとって幸せとは言い難い生活でした。

 一方、郊外が開発されたために、イタリア各都市の中心にあった歴史的な地区が空洞化します。70年代はそれらの地区の再生が都市計画の課題となり、80年代になるとさらに小さな都市の再生に焦点が移っていきます。このとき、ブルネロは動きだします。

世界的なファッションブランドが田舎の風景の再生に取り組む理由とは再生された現在のソロメオ
写真提供:https://www.comune.corciano.pg.it/territorio/solomeo

 82年、ビジネスの基盤ができ始めた頃、ブルネロは本社を現在のソロメオに移します。丘の上にある中世からの小さな街です(現在の住民はおよそ500人)。その後、85年にイタリアの田舎の風景を整備する景観法(ガラッソ法)が制定されました。ブルネロはそこから壁の朽ちた建物が立ち並ぶ街の再生を手掛けることになります。ブルネロは田園風景を望む丘の街を美しいものにしようと徐々に手を加えていき、10年代前半からは平野部の田園風景の整備にも着手します。

 具体的には、高度経済成長期に建てられ、現在は使われていない安普請の工場や倉庫の土地を自分の家族が運営する財団で買い取り、それらを解体した後、オリーブやブドウの畑、少年たちが競技するサッカー場などを造っていきます。そこに込められた彼の思いはローマ時代の皇帝ハドリアヌス(五賢人の一人)の言葉「私は自然の美に責任を感じる」と同じものでした。彼が目指した田園風景の美は18年に実現します。これが田園風景の意味のイノベーションに当たります。

世界的なファッションブランドが田舎の風景の再生に取り組む理由とは整備された平野部を世界から集まったジャーナリストにお披露目
©Brunello Cucinelli