実は、人間もれっきとした「散逸系」です。英語では、「ディシペイティブ・システム(dissipative system)」。先述の通り、さまざまなものをインプットしながらアウトプットし続ける生命体なのです。こうして人間を「自己組織化した散逸系」と捉えると、日々の出来事がより俯瞰的に見えてきます。つまるところ、インプットとアウトプットは宿命である、ということです。

 それは物理的にも、精神的にも、ということです。対流は本能では止められません。ましてや自らの意思で止めてはいけません。死という自然な終焉に至るまでディシペイティブであり続けようとするのは、生命本来の機能です。ですから、無理に「前向きになろう!」とストレスをかける必要はありません。あえて言えば、自分に正直になればいい。ゆっくりと呼吸し、肩の力を抜いて、「今、ここ」を感じればいい。そうすれば、本来の生命の力が戻ってきます。安心してください、そもそも人間はそのようにできているのですから。

やがて「丸まる」時間を受け入れる

 最後に、「死」について述べてみたいと思います。あくまでも私の考えなので、こんな考え方もあるのだな、という参考にしてもらえれば十分です。

 ヤカンの熱湯も永遠に対流を続けるわけではありません。人間も同様です。寿命という、命の火が消えるときは誰の身にも必ず訪れます。それが死です。

 以前、臨床心理学の本に、次のような場面が描かれていました。医師と余命いくばくもない患者さんとの対話です。医師が言います。

「体調はいかがですか? 元気を出して、これからも一緒に頑張っていきましょう」

 それに対して患者さんが問い返します。

「先生、何に向かって頑張ればいいのでしょうか。私は、朝起きると、あぁ、今日も目が覚めてよかった。今日も一日生きていられる。日々、その繰り返しです。なので、何に向かって頑張ればいいのでしょうか……」