経営を中心として情報技術と社会構造の関係を長く研究してきた慶應義塾大学教授の國領二郎氏によれば、時代はいま近代工業文明からサイバー文明への転換期にある。中核的技術は化石エネルギーからデジタル技術へ、権力の源泉である富は貨幣から「信頼」へと移り変わり、信頼をベースに多様なプレーヤーが価値を創発する新たな統治機構が求められていると説く。その統治機構とは、どのようなものか。そして、企業はどう変化していくべきなのか。國領氏の提言を聞く。

古くなった社会制度や哲学を
根本から見直したほうがいい

編集部(以下青文字):2022年に『サイバー文明論』『ソシオテクニカル経営』の2冊の著書を出版されました。執筆の背景を伺えますか。

「信頼」という富を活かして情報共有を促進し、価値を創発する慶應義塾大学 教授
國領二郎
JIRO KOKURYO
慶應義塾大学総合政策学部教授。1982年東京大学経済学部卒業、日本電信電話公社(現NTT)入社。1992年ハーバード・ビジネス・スクール経営学博士。1993年慶應義塾大学大学院経営管理研究科助教授、2000年同教授、2003年同大学環境情報学部教授、2006年より総合政策学部教授。2005年SFC研究所長、2009年総合政策学部長、2013年慶應義塾常任理事を歴任。著書に『オープン・ネットワーク経営』(日本経済新聞社、1995年)、『オープン・アーキテクチャ戦略』(ダイヤモンド社、1999年)、『オープン・ソリューション社会の構想』(日本経済新聞社、2004年)、『ソーシャルな資本主義』(日本経済新聞社、2013年)、『サイバー文明論 持ち寄り経済圏のガバナンス』(日本経済新聞出版、2022年)、『ソシオテクニカル経営 人に優しいDXを目指して』(同、同)など多数。

國領(以下略):2年前まで大学で学部長や常任理事を務めていたものですから、忙しくてしばらく本を出していませんでした。書きためていたものがあったので、それをまとめて出しておこうと思ったというのが一つ。

『サイバー文明論』については、少し大きな議論をしなきゃいけないなという気持ちがありました。トランプ前大統領支持者による米連邦議会襲撃事件に象徴されるように世の中の分断が深まっていますし、世界を見渡せば地政学的な対立が激しくなっています。それを、どういうふうに理解すればいいのか。私の専門である経営と情報技術、社会構造といった観点から、自分なりの考えをまとめておきたいと思いました。

『ソシオテクニカル経営』のほうは、技術システムと社会システムがどのように相互作用しているのか、その両システムを統合設計することが社会全体にとっていかに重要かということを、「ソシオテクニカル」というフレームワークの教科書としてきちんと書いておきたかったという背景があります。

 両書とも、分断と対立、あるいはDXなど、グローバルイシューを念頭に執筆されたと理解していいのでしょうか。

 これまで私たちは20世紀に大成功した近代工業モデルを修正しながら、デジタル経済に合わせてきましたが、その矛盾が大きくなりすぎたことが、格差の拡大や分断といった不幸な形で表出しています。デジタル化の波の中で古くなった社会制度やそれを支える哲学を、サイバー文明の時代に適したものに根本から見直したほうがいいのではないか。そういう問題意識があります。

 対話型AIの「Chat(チャット)GPT」が注目の的となっていますが、技術的な進化もさることながら、AIをつくる側の倫理、使う側の価値観やルールなどについて議論が百出しています。新しいテクノロジーは、技術論や経済論だけでなく、倫理や哲学、社会の仕組みまで含めて考えないと、うまく使いこなせない時代になっています。

 これまでもそうだったのですが、技術と社会は互いに影響しながら共進化する関係にあり、どちらかが先ということはありません。特にネットワークの時代には技術が拡散するスピードが非常に速く、技術の影響が瞬く間に世界中に広がっていきます。だからこそ、技術システムと社会システムを一体のものとして設計するソシオテクニカルアプローチがますます重要になっているのです。

 社会の動的な変化を理解しながら技術を進化させ、そのプロセスに社会制度の設計を組み込んでいく。そうすることで、筋のいいものとして技術を育てていく賢さを私たちは持つべきです。

 チャットGPTは、2022年11月に公開されてからわずか2カ月ほどで月間アクティブユーザーが1億人を超え、史上最速で成長しているアプリケーションといわれます。チャットGPTをはじめとする生成AIの登場をどうご覧になっていますか。

 専門家の間では、いずれ人間がつくったものと区別できないものをAIが生成するようになるという見方が多かったので、その意味では来るべきものが来たという気がします。いろいろ質問するとでたらめな回答をすることもあり、万能でないことは誰もがわかっていますが、得意なことをやってくれるだけでも重宝します。ソフトウェアのバグを修正するとか、英語で書いた文章をネイティブが書いたように上手に直すとか、特定の領域ではすごい能力を発揮します。

 科学技術振興機構(JST)が公募する「人と情報のエコシステム」(HITE)という研究開発プロジェクトがあり、私は2016年からプロジェクトの総括を務めています。AIやロボット、IoTなどの急速な進歩を人間中心の観点でとらえ直し、技術と制度を協調的に設計していくための研究開発ですが、プロジェクト発足当初から、自律的なマシンが出てきた時に仮に事故を起こしたら誰の責任になるのか、マシンが生み出した果実は誰のものなのかといった議論はずっと続けていました。

 こうした問いを突き詰めていくと、哲学にまで深く遡って考えなくてはなりません。民主主義国家における近代の法体系は、民法にせよ、刑法にせよ、自律性と責任を持つ個人が、権利と責任を持つことを前提に構築されています。このような法体系では、車に欠陥がある場合は自動車メーカーが、運転に過誤があった場合はドライバーが責任を負うことになりますが、自動運転車ではAIが他の車を含めた膨大な走行データを学習しながら判断を下します。そのデータの集積に問題があった場合に、特定の個人に責任を負わせるのは無理があります。

 つまり、いまの法体系は自律性を持った機械を想定しておらず、近代西洋哲学の根幹を成す個人主義を見直さないと、先に進めない状況にあると思います。

 デカルトの『方法序説』に代表される近代的合理主義思想に支えられたコペルニクス、ケプラーなどによる科学革命が産業革命につながり、近代工業文明や市場経済メカニズムもそのような哲学的、科学的基盤の上に成り立ってきました。それがいま限界を迎えつつあるのではないでしょうか。