実は本能寺で割腹死を遂げた信長の遺体、もしくは遺体の一部が混乱の中で何者かに外へ持ち出されたことは間違いないようである。その根拠として研究者が指摘するのは、木造の建物が燃えたくらいで顔の判別ができないくらい遺体が燃えきってしまうようなことはまず考えられないというのだ。

 もしも、信長の遺体であれば体の特徴や歯並びなどで確実に判別できたはずで、そうした疑わしい遺体が見当たらなかったということは、すなわち遺体、あるいは首が何者かによって本能寺の外へ持ち出されたと考えるしかないことになるという。

持ち出し説その1~阿弥陀寺説~

 この持ち出し説をめぐっては、いくつかの説が伝わっているが、その中から特に有力視されているものを2つ紹介してみよう。

 まず、「阿弥陀寺(あみだじ)説」から。現在の京都市上京区にある浄土宗の寺・阿弥陀寺に信長の首が埋葬されているという説である。変が起こったとき、同寺に清玉上人(せいぎょくしょうにん)という生前の信長と親しかった高僧がいて、上人は信長が襲撃されたことを知ると、数人の弟子を引き連れ、当時は堀川四条の近く(現在の京都市中京区元本能寺町)にあった本能寺に駆け付けている。

 その後の清玉上人の行動は阿弥陀寺の縁起や公家の日記によって窺い知ることができる。本能寺の裏手の生け垣を破って敷地内に入ると、顔に見覚えがある織田方の武士10人ほどが何かを燃やしている場面に出くわす。

 恐る恐る何をしているのかと聞くと、武士たちはそれが清玉上人であることを認めたうえで、実は信長公はすでに切腹しており、遺言で首を敵に渡してはならぬと言われていたので、いま遺体を念入りに焼いているところだ、と打ち明けたのである。

 それを聞いて清玉上人は、「荼毘(だび)に付すのは出家の役目。あとのことは拙僧らに任せてもらいたい」と言い、遺体を焼く作業を引き受けたという。そして、遺灰にするとそれを法衣にくるんで隠し、本能寺の僧らが右往左往しながら立ち退くのに紛れ、一緒に寺を脱出したそうである。

 こうして信長の遺灰を阿弥陀寺に持ってくることに成功した清玉上人はその後、密かに葬儀を執り行い、急きょ敷地内に設けた墓に遺灰を収めたという。のちに上人はその墓の隣に、同じ本能寺の変で亡くなった信長の長男・信忠の墓や、森蘭丸ら側近の墓も建てている。