ちなみに、信長のほか、秀吉、徳川家康と「三英傑」はそろって囲碁を好んだ。そして算砂は三人すべての指南役を務めている。
閑話休題。――前夜、算砂は本能寺の僧を相手に信長の御前で烏鷺(うろ)を争っている。このとき、盤上に将棋の千日手のような状態になる「劫(こう)」が3カ所もできるという、非常に珍しい現象が起こった。昔から「三コウは不吉」という言い伝えがあり、同席した人々は何事も起こらなければよいが、と小声で語り合ったそうである。
翌朝になり、明智の軍勢が押し寄せた。建物に火がかけられ信長の家来たちが次々と討ち死にしていった。算砂は信長が自刃したことを知ると、まだ生き残っている信長の家来の中から原志摩守宗安(はらしまのかみむねやす)という者を呼び寄せ、信長の首を駿河国(静岡県)にある西山本門寺の住職・日順(にちじゅん)という者に託して葬ってもらうよう指示したという。
信長の首を仏像の中に入れて持ち出す
その後のことは原家に伝わる文献『原家記』に詳しい。宗安は信長の首に加えて、討ち死にしたばかりの自分の父と兄の首を従者に持たせ、本能寺を抜け出すことに成功する。
そして、山道伝いに駿河まで一気に駆け抜け、本門寺に到着すると本堂裏手に3人の首を地中深く埋めたという。
『原家記』には首を持ち出す際、仏像の中に首を隠して運んだと記されていた。また、日順の自筆による本門寺の過去帳には「天正十年六月、惣見院(そうけんいん)信長、明智のために被誅(ひちゅう)」と書かれているという。
本因坊算砂が原宗安に首の埋葬場所としてなぜ駿河の本門寺を指定したかだが、算砂(日海)にとって、当時本門寺の住職だった日順は信頼に足る仏弟子の一人で、しかも日順は原家から出た人物だった。
信長の首を手厚く供養してくれ、首を葬っていることを絶対に口外しない人物として日順に白羽の矢を立てたのであろう。首を畿内に置いておけば発見される確率が高くなるという考えが後押ししたのも確かなはずだ。
樹齢五百年の大柊だけが知っている?
今日、本門寺にある信長の首塚と伝わる場所には、それが墓標でもあるかのように、柊の大木(静岡県指定の天然記念物)が立っている。その案内板には「推定樹齢五百年。炎上する本能寺から持ち出された信長の首がここに運ばれ、埋められたときに植林された……云々」といった意味のことが記されてある。
この柊、植林されたときにどれほど年月がたっていたかわからないが、約500年前と言えば、本能寺の変の頃とほぼ一致する。柊は特徴的な棘(とげ)のある葉をつけることで知られる常緑樹。そこから日本でも西洋でも古来、「魔除けの木」として認識されている。この首塚を守るにはうってつけの樹木であろう。
しかしながら、この西山本門寺説にしても、墓を掘り起こして調査したわけではないので、本当に信長の首が埋まっているかどうかは謎である。それに、首が本能寺からどうやって持ち出されたのか、もう一つはっきりしていないのも問題だ。
戦闘と炎上で現場は大混乱をきたしていたとはいえ、首3つを持って敵の重囲(じゅうい)を見事に突破できたとはどうしても考えにくいのだ。こちらの説に関しても、説を補完し、大方の歴史ファンから納得が得られる新説の登場を待ちたいものである。








