疑問が多い阿弥陀寺説
ところで、この阿弥陀寺説だが、疑問がないわけではない。まず、遺体の焼却時間に関してのことだ。どれほどの時間をかけて遺体を焼けば灰になるのかわからないが、焼いた後、本能寺の僧らと一緒に逃げたという証言を信じるならば、最初に信長の家来らが焼いていた時間を合わせても、たぶん1時間もなかったはずだ。そんな短時間で人間の遺体は灰になるだろうか。
ここは「遺灰」は誤伝で、本当は「遺骨」だったと考えたほうが無理がないようである。
さらに、裏手からとはいえ清玉上人たちが本能寺の敷地内にスムーズに進入できたのはなぜか。遺体を焼いている間、明智の軍勢に見咎められなかったのはなぜか。あまりにも運が良すぎないか――などなど、この阿弥陀寺説にはいくつもの疑問が残されていることは事実。今後の解明を待ちたいところだ。
持ち出し説その2~西山本門寺説~
さて、もう一つ、信長の首に関する説として「西山本門寺説」についても触れておこう。富士山麓、静岡県富士宮市の西山本門寺という寺の本堂裏手に信長の首を埋めたとされる塚が伝わっている。
もともと首塚があることは寺の代々の住職に口伝として伝えられてきたのだが、その口伝を基に、昭和五十四年(1979年)に歴史家の山口稔氏が、さらに平成十二年(2000年)に歴史作家の安部龍太郎氏がそれぞれ西山本門寺に信長の首が埋葬されているという説を発表し、歴史ファンの興味を誘った。
信長と富士山の取り合わせはかなり意外だが、この説の大要(あらまし)はこうである。
本能寺の変が起こった当日、日蓮宗の僧で本行院日海(ほんぎょういんにっかい)という者が信長の招待を受けて寺に宿泊していた。別名を本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)といい、囲碁の家元・本因坊の始祖となった人物である。信長はこの算砂から教えを受けるほどの囲碁好きだった。