信長が寧々に
送った手紙
秀吉には、長浜時代に石松丸秀勝という子がいたらしく、有名な曳山祭はその誕生を祝って始まったといわれる。
これまで実子といわれていたが、母親の素性が分からないなどから、養子でないかという研究者も多い。ただ、いずれにせよ、この石松丸が夭折した後に、信長の四男である於次丸を養子にもらい受け、同じ秀勝という名を付けたようだ。
この頃、秀吉は寧々がいつになっても子をなさないこともあって、きちんとした形で側室を置きたいと言い出していたようだ。そこで、寧々は秀吉が播磨に出かけているうちに、安土の信長のところにごあいさつに行って、世間話をしているときに愚痴などもらした。その後、信長は寧々に温かい心遣いの有名な手紙を書いた。
「そなたの美しさも、いつぞや会ったときよりも、十の物が二十になるほど美しくなっている。藤吉郎が何か不足を申しているとのことだが、言語道断でけしからんことだ。どこを探しても、そなたほどの女を二度とあのはげねずみは見つけることができないだろう。これより先は、身の持ち方を陽快にして、女将さんらしく重々しくし、やきもちなどはやかないように。ただし、女房の役目として、言いたいことがあるときは、言いたいことを全部言うのではなく、ほどほどにとどめておくとよい。この手紙は、羽柴にも見せるように」
そして間もなく、信長の4番目の子で10歳くらいだった於次丸が養子になった。「寧々にやるのだ」という趣旨だったとみられる。
この子が元服して秀勝と名乗り、1581年頃からは、秀吉の代理で領内に公文書を出すことも多くなっている。そして、本能寺の変の年(1582年)には、秀吉の中国征伐に従い、備前児島の常山城攻めで初陣を果たし、備中高松城攻めに参加しているときに、信長の凶事を知った。
そもそも信雄は北畠家に、信孝は神戸家に養子に出ていたのを織田に復姓したのだから、秀勝もそれは可能で、秀吉はその可能性を切り札にしていた。大徳寺の葬儀は秀勝が中心になって出した。
また、秀勝は蒲生氏郷夫人の冬姫と同母らしく、氏郷という頼りになる武将が秀吉に付くことの動機にもなった。
秀勝は正三位・権中納言にまでなり、毛利輝元の養女と結婚したといわれるが、秀吉が信雄・家康連合軍と戦った小牧長久手の戦いの頃から体調を崩し、秀吉も亀山へ見舞いに訪ねたりしたが、1585年12月に亀山城で死去した。17歳だった。
これで、秀吉には嫡男がいなくなったのである。秀吉の姉のともの子である小吉を養子にして、秀勝を名乗らせ、死んだ秀勝の亀山の城と家臣たちを引き継がせたが、後継候補としてはもうひとつであった。正親町天皇の子である智仁王(桂離宮を造った人)を、1586年に猶子にして、万が一の場合には、臨時に関白にするという備えもしたともみえる。