秀勝という重要人物を抹消して
ストーリーをつくる「どうする家康」
一方、この頃から、秀吉は多くの側室を置くようになった。その第一号は、京極高次の姉(もしくは妹)である竜子であった。竜子の父親は京極髙吉で、夫人は浅井長政の姉妹である京極マリアである。熱心なキリシタンとして有名である。
初め、若狭の武田元明と結婚した。武田家は若狭の守護だったが、越前の一乗谷で朝倉の監視下に置かれ、朝倉滅亡後に若狭に戻り新しい若狭の国主になった丹羽長秀の客分となっていたが、元明は本能寺の変の後で明智方に与し、丹羽長秀に殺された。秀吉が美人の奥方が欲しいから夫を殺したという俗説もあるが、あり得ないだろう。
秀吉は天下人になって、お手軽に適当な女性と遊んでいるわけにもいかなくなり、きちんとした形で、側室というか第二夫人のようなものを置いたほうがいいということになった。
そうしたときに、丹羽長秀が、自分が預かっている竜子は生まれも申し分ないし、長浜城主だった秀吉にとっては縁もあるし、京極家にゆかりのある浅井旧臣の家臣たちも多いことだからと、側室にすることを勧めたようだ。
寧々も会い、気がよく回って、気位も高すぎないため、側室とすることにゴーサインを出したらしい(竜子は大坂夏の陣の後も秀頼の遺児で家康に殺された国松の遺骸をもらい受けて葬ったり、豊臣家ゆかりの人々の面倒をよく見たりするなど、優れた女性だった)。
そして、この側室第一号がうまく機能したので、「天下を治めるために役に立つ」という名目で、どこどこの姫だ、妹だ、というのを次々と側室にするようになった。
そのなかに、竜子のいとこである茶々もいたということだ。1587年くらいのことで、茶々は18歳くらいだった。3人の姉妹のうち、三女の江は、お市の姉の子である尾張の佐治一成と結婚していたが、これは、養女になって将来は結婚するということだったようだ。しかし、秀吉と家康が争ったときに、家康側についたといわれて、離婚させられ、秀吉の養子になった小吉秀勝と結婚した(のちに死別し、娘の完子は茶々の養女として九条家に嫁ぎ、今上陛下など現皇室はその子孫である。江は徳川秀忠と再婚)。
次女の初は、いとこで竜子の兄(もしくは弟)である京極高次と結婚した。茶々が秀吉の側室になったのと、初が京極高次と結婚したのは、それほど離れた時期でないようだが、竜子が京極一族の立場を強化するために動いたのだろう。
そして、このときに秀吉は、「茶々との間に子どもができたら、織田の血を引いているから好都合だ」とは思っただろうし、浅井家も織田家も子だくさんの家柄で、とても体が丈夫だったから、“子どもができたら儲けもの”という期待はあっただろうが、それが本当になったのである。
秀吉は茶々に淀城を築いて与え、鶴松が生まれた年の12月には、父である浅井長政の十七回忌、母であるお市の方の七回忌の追善供養を行うことを許可した。高野山持明院にある長政とお市の有名な肖像画は、このときに茶々が描かせて奉納したもので、たいへんよく描けていると評判になったものだ。
戦国時代の女性の肖像であまり写実的なものはほとんどないのだが、この肖像画は写実的で、上記の作画の経緯から茶々の記憶が反映されているとみられる。
筆者の印象としては、名古屋出身の元フィギュアスケート選手・浅田真央さんに似たような印象だ。
そして、淀殿が鶴松を生んだことで、織田家に大政奉還すべきだという議論もいったんは、消えたのである。
こうした経緯を無視して「秀吉がお市の方に懸想していた」とか「まだ幼い茶々を北之庄落城の直後から側室にしたがった」とかいうデタラメを、於次丸秀勝という重要人物を抹消してストーリーをつくっていく「どうする家康」は大胆なことだ。
先週放送のドラマでは、信長の次男・信雄は秀吉と組んで柴田勝家や弟の信孝を滅ぼしたものの、実権を秀吉に握られた信雄が、家康と組んで小牧・長久手の戦いに及んだということが描かれていた。
結局、信雄は秀吉に調略されて、豊臣政権のナンバーツーになる。天下統一のときの序列では、平朝臣信雄が正二位内大臣、源朝臣家康と豊臣朝臣秀長が従二位権大納言だったのである。
この信雄はもっと関心を持たれていいキーマンなのだが、これについては、別の機会に解説したい。
*本稿の推理は、『令和太閤記 寧々の戦国日記』(八幡和郞・八幡衣代共著。ワニブックス)に基づいて執筆した。
(徳島文理大学教授、評論家 八幡和郎)