「ダイヤモンド」1966年5月23日号・日向方齊・住友金属工業社長、井深大・ソニー社長
 今回紹介するのは、「ダイヤモンド」1966年5月23日号に掲載された住友金属工業(現日本製鉄)社長の日向方齊(1906年2月24日~93年2月16日)と、ソニー(現ソニーグループ)社長の井深大(1908年4月11日~97年12月19日)の対談である。ソニーの創業者である井深大については、特に説明は不要だろう。一方、62年に住金の社長に就任した日向は、自身の「競争哲学」によって一躍脚光を浴びた。

 65年に、都市銀行の中で唯一、信託銀行を兼営していた関西の大和銀行(現りそな銀行)に対し、当時の大蔵省(現財務省)が行政指導の手を強めようとしていたことに対し、日向は大蔵省を厳しく非難したことで注目を集めていた。当時の大和銀は三和銀行(現三菱UFJ銀行)、住友銀行(現三井住友銀行)と並ぶ在阪三大都市銀行の一角であり、日向は当時、関西経済同友会代表幹事という立場だったため、関西財界vs霞が関という構図にも映るが、日向のスタンスはあくまで、民間企業の経営に行政が介入することへの異議である。

 同じ頃、本業の鉄鋼業界でも日向は、こんどは通商産業省(現経済産業省)を向こうに回して大げんかを繰り広げた。当時の鉄鋼業界は、戦後最大といわれた「昭和40年不況」に苦しんでおり、価格安定化のために鉄鋼各社は自主減産という協調路線を模索していた。そこで通産省が音頭を取るかたちで、鉄鋼業界各社に対する粗鋼減産プランを提示されたのだが、これに日向は真っ向から反対したのである。というのも、住金は前年に新規高炉を着工したばかりで、不況の中でもリスクを取って先行投資にいった矢先。そこに、行政が業界に対して足並みをそろえて減産を促すいわば“行政カルテル”は、自由経済の根幹を揺るがすと主張したのである。

 このけんかの仲裁には小林中、中山素平といった大物財界人も出てきて、結局日向が譲歩するかたちで決着したが、「自由競争哲学の日向」の存在を広く世間に示した一連の事件となった。一方で、「競争より協調」という信念を貫き、後に経団連(経済団体連合会)会長にもなった“ミスター・カルテル”こと稲山嘉寛とは、常に対比される存在となった。70年、八幡製鐵社長だった稲山は、富士製鐵との合併で新日本製鐵を誕生させた。過当競争に陥っていた鉄鋼業界を安定させるには、1位・2位メーカーが合併することで需給調節するしかないというのが稲山の持論で、日向の経営哲学とは相反するところだろう。その新日本製鐵と住金が、2012年に合併して新日鐵住金(現日本製鉄)となったのは、ある意味感慨深い。

 今回の対談のテーマも一貫して「自由競争と企業の繁栄」。日向は「人間の性質をそのまま自然に発露させたのが、今の自由国の経済だ。自分の利益ということを考え、自己発展というものを考えて、その欲で一生懸命働いている。この集積が今の自由経済ではないかと思う。人間の本性に立脚しているので、これに背反したら能率は悪くなる。その典型が社会主義経済だ」と、“ミスター自由競争”ぶりをいかんなく発揮している。

 一方の井深も、「日本を繁栄させるためには、私はまず働く人たちに一生懸命になってもらわねばならないと思う。そのためには競争が必要である。まかり間違ったらつぶれるという危機感がないところには、真剣さが出てこない」と、最初から手厳しい。60年代、まだ国が民間企業を“指導”するのが当たり前だった時代の痛快な対談となっている。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

自由競争と過当競争を混同するな
過当競争なんかするばかはない

――今回の不況で、いろいろの反省が出てきた。過当競争の問題もその一つですが、結局、根本は自由経済であり、資本主義経済である。特に国際化時代、開放時代に入って、対外競争力の強化という意味で、企業は依然として自由競争を原則に発展していかなければならないと思うのですが、競争が原則でなければならないというような点について……。

「ダイヤモンド」1966年5月23日号1966年5月23日号より

日向 自由主義というけれども、私はなにもこれは主義としてできたものではないと思う。人間の性質をそのまま自然に発露させたのが、今の自由国の経済だ。自分の利益ということを考え、自己発展というものを考えて、その欲で一生懸命働いている。この集積が今の自由経済ではないかと思う。人間の本性に立脚しているので、これに背反したら能率は悪くなる。その典型が社会主義経済だ。

 従って、今の自由活動が価格機構を通じて、利益を求めて100パーセント活動するという仕組みは、どんな時代になっても、これを外してはいかんと思う。

 その逆に、経済生活全体を計画に入れていけば、無駄がないように見えるけれども、もっと大きい無駄をしてしまっているのが、今の社会主義経済だ。一方でロケットとか、そんなものは大いに発達しているかもしれないが、自動車の台数は日本の何分の1かである。私生活の面は非常に犠牲になっている。人間の幸福のためにあるべき経済が、その目的通りにいっていないのではないかというような気がする。

井深 分析してみると、人間というものは、やっぱり自分自身が一番かわいい。その次に自分の家族、それから自分の属するコミュニティー、だんだん次元が上がって成長していくにつれて、日本の国全体を守っていくのには、どうしようという考えが浮かんでくる。

 それがもっと大きくなったら、世界平和ということに考えを及ぼし、発言し、実行していくというかたちになっていくと思う。

 その一番最初の、自分を守る、自分を繁栄させるためには、競争以外に方法はあり得ないと思う。戦争だって同じことで、昔のように狭い局地戦でも、真剣にやっていたのだが、少し後ろに下がってみると、ばかみたいなものだ。今の東亜の争いとか、南北の争いも、少し高いところから見たらばかみたいなものだろう。が、現在の時点では、やっぱり競争して勝ち取っていかなければならない。

 特に日本人の場合、そう理想的なことをいっても駄目だ。競争になったら一生懸命になる。だから、日本を繁栄させるためには、私はまず働く人たちに一生懸命になってもらわねばならないと思う。そのためには競争が必要である。まかり間違ったらつぶれるという危機感がないところには、真剣さが出てこない。

 日本の政府を見ても、公社あたりの仕事を見ても、あれが私企業だったら、もっと違った面で改善できると、万人が認めている。それは競争がないということ、つぶれないということだ。競争ということになると、日向さんもだいぶ被害者なんだけれども(笑)、過当競争ということが出てくる。

 ところが、企業をやっているわれわれは、過当競争をやらなければならなかったとする、またはそれをやるとしたら、もう経営者の資格はない。だから過当競争なんていうのは、やりたい人にはやらせておいていい。勝手につぶれるんだから(笑)、これは仕方がない。統制していいお膳立てをしてやっても、つぶれるべき運命を持っている人だと思う(笑)。

 しかし、競争ということと、過当競争ということとが、ごっちゃにされて、いろんなことが論ぜられている。過当競争なんかするばかはいないんだということで話を進めないと、自由競争というものは出てこない。

日向 そう。過当競争というのは瞬間的にあり得るけれども……。

井深 そうなんですよ。