「食べ物の恨みはおそろしい」
食い尽くし系になる寸前の人はすぐそばに…?

・自分のペースで鍋を食べていたら、相手はそれがついていけないスピードだったらしく、後日「もっと食べたかった」となじられた。
・飲みの席で毎回、みんなが手を出しにくい「皿に残る最後のひとつ」を積極的に処理していたら、いつしか「あいつはいやしい」という評が立っていた。
・「ひと口ちょうだい」の要請に従ってひと口あげたら、そのひと口が自分の想定を大きく上回っていたので、険悪な雰囲気になった。
・人より食べるのが遅く、多人数で食事に行くと、大皿の料理がみるみる減っていくのを見て「こいつら…!」と異様に戦闘的な気分になる(筆者)。

 これらは「食い尽くし系」認定が行われる一歩手前の、いわば「食い尽くし系の芽」である。本人に自覚がなかったり、またそこまで極端な程度のことが行われていなくても「食い尽くし系」認定は発生しうる。なぜか。

 これはひとえに「食べ物の恨みはおそろしい」である。ことわざとして知られるこのフレーズは、耳にあまりになじみすぎてメッセージ性が薄れてきているが、我々が思っている以上に「食べ物の恨みはおそろしい」のである。

 自分が食べようと思っている(と想定されてしかるべき)食べ物は、たとえるならむき出しの神経である。肉にも皮膚にも覆われていないそれは、微弱な刺激を与えるだけで全身に激痛を伝える。それほど食べ物の恨みはおそろしいので、普段は温厚で寛容な人がちょっと多めな「ひと口ちょうだい」を食らって内心怒り狂ったりするのである。 

 そして「食い尽くし系」という新語が流布しつつある今、「食い尽くし系」認定のハードルも下がって、よりはるかに活発に認定が行われていくであろう。雨粒のごとく降り注ぐその認定の嵐をすべてかわすのは難しいので、受け止めるべきものをしかと見極め厳選して、それに絞ってきっちり自省する……くらいが健全かもしれない。