時間を長引かせると、世間にストレスが溜まり、「藤島氏を無一文に追い込むべきだ」といった種類の処罰感情が高まって、これに乗じる者が現れる可能性があり、事件を大きくしたいメディア以外の関係者にとって有害無益だ。

 現時点のジャニーズ事務所は財務的・資金的な余裕は潤沢であるようだ。「サプライズとなる金額で、早く決着」が上策ではないだろうか。

 もちろん、事務所の側でサプライズだと思う金額を提示しても、個々には不満だとして訴訟などに訴えるケースも出てくるだろう。そうしたケースについては、辛抱強く応対する以外にない。

「社会的処罰」の作法と限界
同調圧力との付き合い方は難しい

 以上、筆者としては、どちらに加担するわけでもないと自分で考えた解決案を述べたつもりだ。

 さて、本件が「類を見ないスケールの重大犯罪」であることは繰り返している通りだが、これに対してどう向き合うべきなのかについては、課題が残っている。それは、「悪いやつを社会的に処罰してやれ」とする世間の圧力に、個々人がどう対処すべきなのかという問題だ。

 本件の関係者は、藤島氏や東山氏のような「あちら側に見える人」も含めて、ジャニー氏本人以外の人は、何がしか気の毒な被害者の面を持っているので、現存する誰かを徹底的にたたくのはそもそも気が進まない。加えて、もちろん経済的な損失や精神的な苦痛を強制する「処罰」は、司法機関が法律に則って行うべきもので、「世間」が代行すべき行為ではない。

 目下、何はともあれ、本件について言及する際に、これが重大な犯罪であることを認めて確認することは、番組や記事であろうと、SNS上の発信であろうと、「当然の作法」だろう。故・ジャニー氏を弁護するような発言は、必要な非難とバランスさせた上でなければ不適切だろう。倫理的な判断基準は、時代や場所で異なるが、この問題について、現状の日本および世界の基準はこのようなものだろう。われわれは、適応すべきだ。

 だが一方で、言論に自由があるとの大原則の下で、例えば「ジャニー氏には、プロデューサーとして類いまれなセンスがあった」というような内容を論じたい人はどうしたらいいのだろうか。性加害の事実や悪さを「別として」物事を論じる文脈が許されないのだとすると、言論が不自由だし、そうした社会は不気味でもある。

 また、加害に一切責任のない人で、今回の問題を論じることから距離を置きたい人は、どうしたらいいのか。現状では、立場に応じてなるべく不利益のないように振る舞うしかない。

 社会的な同調圧力とどう付き合うかは、なかなか難しい問題だ。

 なお、本稿で、重大な犯罪事実に対して見ないふりを決め込んだ放送局、新聞社などのメディアの人々の責任に触れていないのは、彼らが行動原理上リスク回避的なサラリーマンであって、行動規範上ジャーナリストといえる人たちではないことを筆者が痛感しているからだ。

 彼らが、悪くないとも、責任がないとも思ってはいない。全く期待していないだけだ。