小倉昌男・ヤマト運輸相談役
 1971年、小倉昌男(1924年12月13日~2005年6月30日)は、父である小倉康臣が創業したヤマト運輸の2代目社長に就任した。ところが、間もなく訪れたオイルショックとガソリン価格の高騰で業績が低迷。そこで76年、小倉が乗り出した新規事業が個人向け小口貨物配送サービス「宅急便」である。当時、個人間の輸送は、郵便局の小包(現在のゆうパック)か国鉄(現JRグループ)による鉄道小荷物の寡占だった。

 今回のインタビューは「週刊ダイヤモンド」1993年4月24日号に掲載されたもの。小倉は87年に会長、91年に相談役としてすでに経営の第一線から退いてはいたが、経団連政策委員、経済同友会幹事などの役職に就き、また行政改革推進審議会の委員としても規制緩和について積極的な発言をしていた。常に本音で物を言う姿勢から、注目される存在でもあった。

 インタビューでは新規事業への思いを熱っぽく語っている。特に84年に参入した引っ越し事業については、これだけで十分食べていけるくらいの需要があるはずと期待を寄せている。

 また、「年を取るごとに仕事が面白くなってきた」とも語る。「30代後半が一番、体を張って働きました。で、論理的に物が考えられるようになったのは50歳くらいからかな。60になって、物の考え方は一つじゃないんだと分かった。陰があれば陽がある。明るい部分があれば裏には真っ暗な部分がある。それに気が付いて、ではそこからどうするか……ということを考え始めていくと、仕事はまた面白くなってくるものなんですよ」。

「陰があれば陽がある」ことに気付くことが事業開発の要諦だというのは、「規制緩和の旗手」として戦い続けた経営者だからこその言葉といえる。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

ネットワークの規模で
事業基盤の条件は大きく変わる

「週刊ダイヤモンド」1993年4月24日号1993年4月24日号より

――「宅急便」というのは生活の中ですっかり定着しましたけれど、逆に成功した故の悩みというものもあるんじゃないですか。

 それはありますね。成功したビジネスもいずれ成熟して、何年か後には大体、斜陽になってくる。新しいものを考えなくてはいけないと思って、焦る時期はありました。まだ次のものは考え付きませんが、うちは全国に1600の営業所があり、毎日結ばれている。まずはこのネットワークを活用しようと思ってます。

――取次店の数は27万軒くらいでしたよね。1600というのは直営の営業所の数ですか。

 そうです。僕はまだあと1200くらいは、細かいネットがあってもいいと思っています。1600のネットワークを持つのと、これが2000以上になったときとは、基盤となる条件が変わってくる。それによっては本業はもっと伸びるし、同時にこれを別の仕事に使えるだろうと。

――別の仕事というのは、例えば。

 一つにうちのネットワークを使って、受注と代金回収を請け負うかたちで物を売っていくことです。一応、代金回収の方は「コレクトサービス」というシステムをつくったんですが、受注のノウハウはまだない。現状では、配達に行くとき「こういうものはどうですか」と置いていって、売っているんですが……。今のところ北海道の営業所をモデルに、実験をしているような段階です。

――何が売れているんですか。

 今一番売れているのが、和歌山県から仕入れた1パック1000円の梅干し。北海道にはウメがないからでしょうか、月間2000万円も売り上げてます。

――梅干しを売ろうというのは、現場からの提案だったんですか。

 僕は最初、北海道にないもので毎日食べるものを仕入れてみろ、と言ったんです。で、北海道に行って調べると青菜や小魚がない。しかし野沢菜はある程度売るともう飽きられました。小魚は、アジの干物を沼津から仕入れたんですが、ホッケの開きの方がうまいと言われてね。北海道の人はラーメンばかり食べるから、カレーショップもやらせてみたんですが、これもなぜか駄目で。しかしトイレットペーパーは当たりまして、年間2億~3億円を売りました。毎日使うものだし、かさばるからでしょうね。うちは「配達付き」ですから。結局昨年、北海道の営業所では、約7億円ほど売りました。