9月1日、福田康夫首相は緊急の記者会見を開いて辞任を発表した。これはデジャビュであろうか。あるいは悪い夢を見ているのだろうか?

 首相の辞任は、8月の内閣改造後、ねじれに苦しむ臨時国会への決意を新たにし、給油法案継続への意欲を見せた直後のことであった。会見では、自らの功績を自画自賛することに終始し、野党の小沢一郎民主党代表が国会運営で協力してくれないから辞めるのだ、という理由付けでもって自らの退陣を正当化した。

 結局、首相の口からは国民への謝罪の言葉はなく、空転して政治空白を生み出すことになる議会(国会)へのお詫びの言葉もなかった。また、連帯責任のあるはずの麻生太郎幹事長も謝罪どころか、即日、次期総裁選出馬への意欲を見せて、総裁辞任という党の「不祥事」をうやむやにしたのだ――。

中曽根元総理も指摘する
世襲政治家の胆力の無さ

 これはどこかで見た光景だ。1年前の9月、同じようなことがなかったか。そう、「日付」(1日と12日)と「時刻」(昼夜)、そして首相の「氏名」(安倍晋三と福田康夫)という3点を除けば、状況も登場人物もまったく同じなのである。

 いったい毎年9月に繰り返されるこの茶番を、どう説明したらいいのだろうか。なにより、政権をいとも簡単に投げ出す自民党総裁の軽さ、そして日本の首相の胆力の弱さ、これは一体なんなのであろうか?

〈次の自民党総裁にふさわしい人を考える時、最近の首相辞任の二つの例を、我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする〉

 これは、きょう(9月3日)の『読売新聞』談論に掲載された中曽根康弘元首相の論評だ。