1985年1月5日  評論家  山本七平
 保守系の評論家として知られる山本七平(1921年12月18日~91年12月10日)は、56年に聖書学を専門とする山本書店を創業。70年に『日本人とユダヤ人』(イザヤ・ベンダサン著・山本訳)という、ユダヤ人との対比による独自の日本人論を出版すると、これがベストセラーとなった。イザヤ・ベンダサンは山本のペンネームであるとされており、その後は『私の中の日本軍』『論語の読み方』『「空気」の研究』など数多くの著書を残した。

「週刊ダイヤモンド」85年1月5日号に、山本の講演録が掲載されている。テーマは「次代を担う指導者の条件」だ。

 84年に山本の訳・解説で出版された『権力の解剖』(ジョン.K.ガルブレイス著)で、著者である米国の経済学者のガルブレイスは、「個人的資質」「財力」「組織」の三つを権力の3源泉と呼び、この権力の行使の手段には「威嚇権力」「報償権力」「条件付け権力」の3段階があると述べている。そして、経営権としては威嚇権力と報償権力はだんだん使えなくなっており、残る権力行使の手段はコンディションド・パワー(条件付け権力)しかなくなってくると分析した。

 威嚇権力は、相手が嫌がるような結末を罰としてチラつかせたり、脅したりすることによって服従させる権力。 報償権力は相手が喜ぶ報酬を提示することによって服従させる権力である。では、条件付けとは何か。パブロフの犬で知られる条件反射によって、ある条件の下で人間を反応させるのがガルブレイスの言うコンディションド・パワーである。そしてコンディションド・パワーを行使し得る者こそが新しいリーダーであるというのだ。

 山本は、このコンディションド・パワーを行使するには“徳”や“人望”が求められると語る。リーダーは必ず能力主義で選ばれるが、単なる能力に加えて人徳のようなものが合わさった“器量”が求められるというわけだ。そして、リーダーが、コンディションド・パワーを行使しようとするなら、その国、民族がどのような原則の中で生きてきたかという組織伝統を探求する必要があるとして、日本における能力主義、一揆という伝統、儒教的上下関係といった伝統について触れていき、日本の次代を担うリーダーの基本的要件について、独自の視点でまとめている。

 山本は最終的な結論として、東洋古典の「四書五経」から二つの言葉を挙げている。その言葉とは……ぜひ、記事をお読みいただきたい。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

これからのリーダーとは
コンディションド・パワーを行使し得る者

 ガルブレイスは、その著書『権力の解剖』(日本経済新聞社 山本七平訳・解説)の中で、経営権は権力であると述べている。同時に、彼は、モノを売るということも、相手に買わせるという一つの権力行使であると説明している。従って、経営においては、経営体内部を動かす権力と、できた商品を売る権力が表裏一体になっており、この二つの権力を完全に行使し得る人間が、その企業におけるリーダーの条件を満たした人間ということになる。

1985年1月5日号1985年1月5日号より

 それでは、経営権とはどのようにして行使するものか。ガルブレイスは、これも権力という側面から分析しており、それを権力の3源泉と呼んでいるのだが、個人的資質、財力、組織であり、この三つがない限り、権力は行使できないとしている。

 次に、ガルブレイスは、権力行使の手段を、威嚇権力、報償権力、それと、これは面白い言葉なのだが、コンディションド・パワー(条件付け権力)という3段階で述べている。結論的にいえば、威嚇権力も報償権力も、だんだん経営権としては使えなくなり、残る権力行使の手段というのは、コンディションド・パワーしかなくなってくるだろうというのが、ガルブレイスの分析である。

 確かに、企業内部の経営権の行使にしても、また、モノを販売するという場合においても、報償権力というものが全くなくなったというわけではないし、威嚇権力もある程度は残っている。しかし、どちらも主体ではなくなってしまった。基本的人権が重んじられる先進資本主義国では、威嚇権力にしても、逆に、経営者の方が、法を通じて威嚇される場合もあるわけで、さらに、会社に勤めるのは嫌だというようなモラトリアム人間など、社会的居候が存在し得る状態であれば、報償ということは、一つの大きな権力になり得ないのが現実である。