李克強・中国前首相の死去は「中国経済低迷の始まり」の象徴か、習一強体制で統制強化の行く末Photo:Lintao Zhang/gettyimages

中国の李克強前首相は習近平総書記が経済政策への関与を強める中で実権を失ったが、習氏の統制強化路線への歯止めだった。その死去は中国経済低迷の始まりの象徴かもしれない。(ダイヤモンド編集部編集委員 竹田孝洋)

市場経済重視路線だった李氏

 中国の李克強前首相が10月27日、死去した。今年3月の首相退任後、甘粛省敦煌など観光地を巡り、観光客に手を振る様子を映した動画が公開されるなど元気な様子を見せていた。突然の訃報だった。

 李氏は、胡錦濤前国家主席などを輩出した共青団(中国共産主義青年団)のホープとして頭角を現した。経済学博士の称号も持つ。

 1993年に共青団の第一書記に就き、99年には河南省の省長に就任した。43歳での就任は最年少だった。

 胡錦濤氏の次の総書記、国家主席候補と目されていたが、2007年10月に政治局常務委員に就いたときの序列は、胡錦濤氏率いる共青団と対立する江沢民元主席など上海閥が推す習近平現総書記の次となり、次期首相就任が固まった。中国では首相は経済を統括するものとされてきた。

 12年10月に習執行部が発足し、13年3月に首相に就任した後、李氏は民営企業育成、市場経済を重視する方針を示し、国有企業改革などを打ち出した。

 遼寧省の幹部時代だった07年にGDP(国内総生産)より信頼できる数値として挙げた電力消費量、鉄道貨物輸送量、銀行融資量の三つから成るいわゆる“李克強指数”が注目され、リコノミクスなる言葉が生まれた。

 中国・天津で開催された14年の夏季ダボス会議では「大衆創業、万衆創新(みんなで創業し、みんなでイノベーションを起こそう)」と発言し、イノベーションを奨励した。改革開放路線の継承者として李氏の経済政策の手腕に期待が集まった。

 しかし、総書記に就いた習氏は統制強化を志向し、市場経済重視路線の李氏から経済政策の実権を奪い、自身の一強体制を固めていく。17年10月に発足した2期目の習執行部においては、習氏側近である劉鶴が副首相に就任し、実質的に経済政策を担った。18年に激化した米中貿易摩擦における交渉役を担ったのも劉氏だった。