映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』に内包された
先住民映画としての3つのポイント
――最後に映画の感想を教えてください。長年、アメリカの先住民族の研究をされてきた観点から、映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』をご覧になってどう思われましたか?
エンターテインメントとしては、よく作り込まれた映画だと思います。公開前からアメリカでもかなり話題になっていたんです。ハリウッドのレッドカーペットをオセージ族が歩き、映画は自分たちの(苦難の歴史の)成果だと語った。エキストラ含め700〜800人のオセージ族が関わっていたとも言われていますが、製作プロセスにオセージの人たちがしっかりとコミットして作られている点はとても重要だと思います。
一方で、先住民映画という観点で見たとき、気になる点が主に3つありました。一番大きかったのは、変わらぬ「白人男性視点」です。
この映画は、オセージ族にとっての「トラウマ」となったセンセーショナルな殺人事件をテーマにしています。確かに、原作者も監督も、先住民の視点を取り入れながら、事件を真摯(しんし)に描こうとしていますが、ハリウッド映画に特徴的な白人男性視点がやはりすごく強く、先住民、特に女性や子どもの視点があまり描かれていなかったな、という点が、映画を見終わったあとの率直な感想でした。
レオナルド・ディカプリオ扮(ふん)するアーネストや、ロバート・デ・ニーロ扮するキングなどの白人に関しては、複雑な感情が細かく描かれますが、一方で、アーネストの妻であり先住民のモーリーが表現するのは、自分の家族の死という、受け入れがたい悲しみに暮れる、ある種の単純化された感情です。先住民の女性や子どもが悲劇の対象にされる、あるいは、白人男性をサポートするような、清く正しい仲介者として描かれる、というのは、先住民映画の特徴でもあります。
オセージ族って、母系性の社会なんです。財産や権利も母系が引き継ぐ。だから映画では女性が次々と殺されてしまう。母系社会の家族にとって女性がいなくなることは、ものすごく深刻なことです。女性が殺されていくことが、オセージの家族や社会にどのような影響を及ぼすかに想像をめぐらすことは、この事件を考える上でとても重要です。その意味では、映画に描かれていないオセージ社会の文脈を想像しながら、この映画を見てもらいたいと思います。私たちの社会が見つめなければいけないことは、「自分たちとは違う社会」なんです。
2つめは「恥の文化」です。ここ数年、マイノリティをテーマとした映画が一種のはやりでもあるんです。特に秋というのはアメリカではマイノリティに関する映画祭も多い。今回の小説の映画化も、ハリウッドのそうした雰囲気が背景にあったと思います。それ自体はとてもいいと思うのですが、特にハリウッドの先住民映画には、アメリカ人にとって心地よい「恥の文化」が見え隠れするんです。
――「恥の文化」ですか?
アメリカのエンタメ業界の中心にいる白人たちが、人種差別の意識から抜けるために多様性を重視しようとしている映画界の中で、こうした映画というのは、ある種、アメリカ人にとっては心地いいんです。「自分たち白人はこんな駄目なことをしてしまった」「自分たちは殺人を犯してきてしまった」という告白映画というふうにも捉えられます。
――贖罪(しょくざい)的な。反省が込められているなら良さそうな気もしますが……。
アメリカでベストセラーとなった、ロビン・ディアンジェロ(※白人研究で有名な作家)の『White Fragility』という本があります。「白人のもろさ」をテーマにした本で、翻訳版も出ています。
トランプ政権の時代、アメリカでは、人種主義者や白人至上主義者がかなり目立っていました。もちろん、多くの人々は、積極的にであれ、消極的にであれ、「私は人種差別なんてしない」とするスタンスを取っているでしょう。でも、そうした、ある種のリベラルな「意識の高い系」の人たちに潜む人種主義を、この本はあぶり出しています。
例えば、差別を受けたと感じた黒人が「あなたは今、差別をしたよね」と白人に言うと、「どうしてそんなこと言うの? 私は差別などしたこともないし、しようとも思っていないし、人種差別をしないという教育も受けてきた。あなたこそ、過剰に人種を意識しているんじゃないの?」と返す。人種差別を指摘されても、自分たちが人種差別をしていることは決して容認できずに、傷つき、感情的に抵抗する。そうした「もろさ」を抱える白人のリベラルたちが、プライドを傷つけずに唯一できることが「恥の告白」であると、作者は指摘しています。
「私たちはもともと人種差別をしてきた。それはすごく悪いことで、今後はそのようなことがないようにしなければいけない、だからこうした映画をつくった」「インディアンや黒人に対する暴力を反省しているからこういう映画をつくった」――。こうした、恥の告白というのは、ある種の贖罪で、白人にとってすごく心地のいいものなんです。
今、いろいろな映画が多文化主義や多様性に向けて変わってきていますが、こうした贖罪的な映画は、結局、誰が悪いのか? これからどうすべきなのか? マイノリティたちの気持ちは? といった、暴力の構造や当事者の内面にまでは立ち入らずに、恥を告白して終わる。その後のことは、見る者に任せる。こうした構造もこれまでの映画と同じだったように思えます。
――これまでは蓋をして触れられてこなかったマイノリティの事件が、贖罪的ではあるけれども、今は触れられるようになってきた。そして今後は、その先へ踏み込んだ内容が求められるだろうと。
これらはあくまで私の感想ですが、あるインディアンの友人にこうした感想を伝えたら共感してくれました。その友人は、映画のポスターに大々的にディカプリオの顔が載っていることに対し、「インディアンではなく、ディカプリオの映画じゃん」と怒ってましたね(笑)。エンタメとしてはおもしろいですが、この映画の受け取られ方は、当然ながら、一般的な映画ファンと、先住民社会の人々とでは、異なるでしょう。
ただ、先ほどお伝えしたように、この映画の製作には、数多くのオセージ族がかかわっていて、彼らはすごくプライドを持って映画をつくっているんですね。約60人殺されているということは、自分たちの祖先たちが何らかの形で事件の被害者になっているということでもあります。それもあって、誰も長い間、その事件について話せませんでした。
そうした背景がある中で、オセージの人が言っていたのが、「これは自分たちのヒーリング」だと。
この映画を監修することは、自分たちの祖先に何が起こったのかを確認する作業でもあり、彼らのトラウマを克服する過程でもあったと思います。レッドカーペットを歩き、リポーターの前に進み出て、映画の感想を自分たちの言葉で語る。自分たちが触れられなかったトラウマ的な事件が物語となり、それを語って、理解して、人々に伝えていく。
「悲惨な過去を乗り越え、自分たちは今もこうして生きている」――。『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』は、彼らの抵抗と生き残りを象徴する映画であり、今もトラウマ的な記憶を癒やしながら生き続けているオセージ族の、「レジリエンス(回復力/再起力)」の映画でもあるんですね。これが3つめです。
――ありがとうございました。