お金持ちの家に生まれ育ち、大学を卒業して間もなく結婚。3人の子どもを授かるも離婚した。実家に出戻ったものの、父親の会社が倒産し、49歳で住む家を失った。ついには預金通帳の残高がほぼ0円に……それまでとはうって変わって赤貧生活に陥り、裸一貫で整体院で働くようになった。自分の力で人生を切り拓いてきたとき、今度は末期寸前のがんを患うことに。そんな波乱の人生を乗り越えて「今がいちばん幸せ!」と断言する『71歳、団地住まい 毎朝、起きるのが楽しい「ひとり暮らし」』(ダイヤモンド社)の著者が、毎朝起きるの楽しくなるライフスタイルを【人間関係】【食事】【睡眠】【健康】【メンタル】【ファッション】【インテリア】【パソコン】とテーマごとに紹介する。
※本稿は『71歳、団地住まい 毎朝、起きるのが楽しい「ひとり暮らし」』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。
みんなは文学部を選ぶけれど
裕福だけど窮屈さを感じていましたが、高校3年生になり、進路を選択する時期がやってきました。
当時はまだ女性の大学進学率が低い時代で、進学したとしても「文学部」を選ぶ人がほとんどでした。
ここで私の“人と違うことをしたい病”がむくむくと頭をもたげます。
人とは違う法学部へ進学
不動産業という仕事柄のせいか、父は法律に詳しく、仕事関係で家にやって来た人と法律関係の話をすることがありました。
内容はわからずともその話に興味を持っていた私は、「法学部」へ進学することにしたのです。
大学進学を理由に親元から離れて、東京でひとり暮らしをする気満々。珍しく親もそれに賛成してくれていたのですが、いちばん入試日程の早かった神戸の甲南大学に合格したとたん、手のひらを返されてしまいました。
東京には行けなかったけれど
「近場の大学に合格したんだから、もうほかを受ける必要はないだろう。東京にはやらない」という父の言葉で万事休す……。従うしかありませんでした。
とはいえ、大学生活は満喫できました。父の仕事がよりいっそう忙しくなり、ほとんど家に帰って来なくなったからです。
そうなると、もう私の天下です。
自由奔放な大学生活
ジャズボーカルに興味を持った私は、知人の紹介で、キャバレーやジャズバーに出入りして歌わせてもらうようになりました。
一方で、そのころデザイナーズブランドのブームが始まりました。オシャレをするのが好きな私は、見よう見まねで流行の最先端の服を手づくりするようになります。
昼は大学と服づくり、夜は遊びとジャズシンガーの活動と、毎日があっという間にすぎていきました。
※本稿は『71歳、団地住まい 毎朝、起きるのが楽しい「ひとり暮らし」』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。