辻晴雄・シャープ社長
 1912年にシャープを創業した早川徳次の言葉に「人にまねされる商品を作れ」というものがある。他社がまねをするということは、消費者のニーズが高いことの証左であり、それを他社に先駆けて開発し、量産することが勝利の法則ということだろう。実際、シャープは数々の世界初、日本初の製品を生み出し、戦後の日本を「家電王国」に押し上げる重要プレーヤーとなった。

 80年代以降のシャープを象徴するのが「液晶」だ。73年に世界で初めて液晶表示の電卓を開発し、社内に液晶技術のシーズはあった。そこに目を付けたのが、86年に3代目社長に就任した辻晴雄(1932年12月6日~)である。55年、早川電機工業(現シャープ)に文系の大卒1期生として入社し、77年に取締役テレビ事業部副事業部長に就任。翌年、本部名を電子機器事業本部に変え、本部長となる。映像を見るだけの家電としてのテレビでなく、さまざまな「情報の窓」と位置づける「ビジュアル・インテグレーション」構想を打ち出した。

 86年に社長になると、プラザ合意による急激な円高により、家電一辺倒から事業構造を転換する必要に迫られる。このとき、脱家電、ビジュアル・インテグレーション構想の基幹技術となったのが液晶だった。こうした背景から、液晶ビデオカメラ「液晶ビューカム」、電子手帳「ザウルス」、日本語ワープロ「書院」、液晶プロジェクター「液晶ビジョン」、液晶テレビ「AQUOS」などが生まれたのである。

「週刊ダイヤモンド」96年2月10日号に辻のインタビューが掲載されている。液晶技術を強みとして情報家電でまさに先頭を走っていたシャープの、商品開発力の秘密を尋ねている。「サクセスストーリーがスパイラルな効果を生み出す力になっているかもしれませんね。『成功は成功の母』ということですかね」と辻は答えている。

 98年に辻に代わって社長となった町田勝彦は、「国内で販売するテレビを、2005年までに液晶に置き換える」と宣言、液晶事業への選択と集中をさらに拡大する。しかし、韓国、中国、台湾の家電メーカーも続々と液晶事業に参入し、液晶パネルの価格はみるみる下落。激しい価格競争の中、世界最高峰の品質だけでは差別化を図れなくなり、液晶への過剰投資から経営危機に陥る。そして16年4月、台湾に本拠を置く鴻海精密工業の傘下に入った。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

経営とは次を読み
その芽を育てていくもの

「週刊ダイヤモンド」1996年2月10日号1996年2月10日号より

――オーディオとビジュアルの開発の歴史を見ていくと、A(オーディオ)とV(ビジュアル)の新製品が交互に誕生しているという説があります。

 それをメーカーの側から見ると、経営者が常に次の時代を考えてきたから、そういう結果が出たということになります。うちの創業者はラジオを出したときに、次は「絵の出るラジオ」を考えろと言いましたね。そのテレビの製造で忙しいときには、このテレビはもちろんアナログですが、私どもはデジタルを考えていたわけです。

 そして、その延長線上に電卓がつながっていき、それがまた半導体へ、液晶へとつながっていったわけです。このように、経営とは次を読み、その芽を育てていくものだと思いますね。

――今言った順番を追っていくと、次は録画可能なDVDになるらしいのですが、どうでしょう?

 先を読むのは難しいことですが、きっとそうなるでしょうね。

――シャープも昨年、ノート型のパソコンを再び世に出しましたが、まだまだ中途半端ではありませんか。

 1995年度、世界のパソコンの総需要は6000万台前後に上るでしょう。このように需要が今後も伸びていくためには、商品そのものが進歩ではなく、進化していくことが必要じゃないでしょうか。進化して初めてユーザーインターフェースが良くなり、使いこなしていただける商品になっていくのでしょう。

 パソコンも、それ自体が大きく変化していきます。私は、パソコンは車のエンジンのようなものだと思っています。車のエンジンがどこに付けても動力となるように、パソコンも、キーボードやディスプレーを外してどこに付けても、パソコンとして機能します。

――確かにそう考えると、アイディアが浮かんできそうですね。

 車を買うとき、エンジンの詳細についてあまり聞かないでしょう。そんなことよりも、安全性やデザイン、コストパフォーマンスがいいから買う。テレビや冷蔵庫だって同じです。中にあるものよりも、それによる結果やその上にかぶさっているもので判断しているじゃないですか。パソコンだって同じです。ですから、機能さえきちんと果たせば、キーボードがなくてもいいという考え方が成り立ちますね。