尋常じゃない度胸の持ち主

 そんな道長の最大のライバルが藤原伊周であった。道長の長兄・道隆と才女として知られる高階貴子の嫡男として生まれた、道長の8歳年下の甥だった。正暦元年(990)、道隆は摂政に就いて38歳で権力をにぎると、女御として一条天皇のもとに入内していた長女の定子(伊周の実妹)を強引に中宮とした。さらに同年、伊周はわずか17歳で蔵人頭(天皇の秘書官長)に就き、翌年には参議(国家の閣僚)となり、さらに翌年、権大納言にのぼった。このように道隆は、近親者を高位高官にすえることで、己の権力を不動のものとするつもりだった。

 伊周は、6歳年下の一条天皇にも兄のように慕われ、漢学を進講するなど親しく接した。つまり妹の定子を通じて直接天皇とのきずなを深めたのである。ただ、儀礼などを自己流に解釈して改変したり、間違いを認めぬ頑固さが目立ったりして、密かに公卿(現在の閣僚)たちからひんしゅくを買っていた。とはいえ、道隆政権のもとで面と向かってその御曹司・伊周を批判できる者はいなかった。

 けれど、道長はどうも違ったようだ。『大鏡』(道長の栄華や権勢を中心に描いた歴史物語)には次のような逸話が載っている。

 伊周が道隆の屋敷で人びとを集めて弓の競射をおこなったさい、道長が突然会場に姿を見せた。道隆は弟の飛び入り参加を大いに喜び、伊周より先に道長に弓を射させてやった。結果、的を射貫いた数は伊周より道長のほうが多かった。

 すると、参加者たちは伊周に花を持たせてやりたいと考え、「あと二度ほど勝負したらどうか」と提案したのである。

 道長は内心ムッとしたが、あえてこれを受け入れた。ただ、矢を射るさい、「我が家から天皇や后が出るなら、この矢よ、当たれ!」といい放ったのだ。しかもその矢は、見事に的の真ん中に突き立った。

 これを目にした伊周は動揺し、射た矢はあらぬ方向に飛んでいってしまった。しかし道長が続いて「私が摂政や関白になるというなら、この矢、当たれ」と矢を放つと、これまた的が破れるような勢いで真ん中を射貫いたのである。

 興ざめした道隆は、伊周に向かって「もう射るな、射るな」と制止し、座は一気にしらけてしまったという。この逸話が史実かどうかはわからないが、本当なら道長は大した度胸の持主だといえる。