ただ、これは伊周の早とちりだった。法皇の相手は三の君ではなく、同じ屋敷に住む四の君だったのである。法皇は恥になるのでこの出来事を黙っていたが、噂が広まって事件は表沙汰になった。さらに伊周が道長を呪詛していたのが判明したという。

 その真偽は明らかではないが、伊周は公卿会議で九州の大宰府に左遷されることになった。これを長徳の変と呼ぶ。彼は妹・定子のもとに逃げこんだり、逃亡したりと醜態をさらしたあげく、ようやく観念して大宰府に向かったものの、早くも翌年には恩情で都に戻ることを許された。定子は事件を恥じて出家したが、一条天皇は彼女を呼び戻し、2人の間には一男二女が誕生した。しかしながら、権力争いから完全に脱落した伊周が外戚として力を振るうことはなかった。もし事件が起こっていなければ、伊周が道長をしのいだ可能性は十分あったろう。

日記は仕事マニュアル

 道長は、内覧となって権力を握った長徳元年(995)から日記を書き始めている。

 日本人が日記を書くようになったのは、これより約100年前の9世紀の終わり頃だとされる。もちろん庶民は文字を書けないから、日記を記したのは貴族たちであった。

 現代では、通常、日記は自分のために書くものであって、特殊な例を除いて公開することを前提にしていない。しかし平安貴族の日記は、他人の目を意識して書かれており、なおかつ、貴族どうしで売り買いされるほど、価値の高いものだった。

『土佐日記』や『更級日記』のような日記文学は別として、貴族の日記は暦本に書かれた。暦本というのは、陰陽寮という役所にいる暦博士(学者)が作成し、日の善し悪しや吉凶を判断するための情報が具さに記されているため、これを具注暦と呼び、1年間で2巻セット(半年に1巻)となっていた。

 この具注暦には、日ごとに空白部分(間空き)があり、そこに貴族たちはその日の出来事や、年中行事や儀式の内容、手順や作法を細かく記すのが一般的だった。個人的な思いや感情を日記に書き付けることは少なかった。書ききれないときは、別の日や裏に書き付けた。日記は、任官され仕事を本格的に始めた頃に書き始め、引退と同時に書かなくなるのがふつうだった。そういった意味では、日記は現役時代に書くものだったのだ。

 貴族の日記は、親から子へ家宝として伝えられ、子供は父祖の日記を参考にして学び、当日の儀式や行事に臨んだ。今でいう、仕事のマニュアル本といえよう。このため日記を切り貼りして儀式書にしたり、特定の事項に関する記述を抜き出して別の本をつくったりする場合もあった。

 いずれにせよ、平安貴族の日記は価値があるものだったので、多くの人に書写されたり、写本や実物が売り買いされる場合もあった。