道長の出世

 正暦5年(994)、前年に関白に就いていた道隆が重病に陥った。回復の見込みがないと思った道隆は、息子の伊周、隆家(伊周の実弟)、道頼(伊周の異母兄)らを昇進させる人事をおこなった。伊周はこのおり、3人の公卿をごぼう抜きにして21歳で左・右大臣に次ぐ内大臣となった。追い越された1人が権大納言の道長だった。もちろん道長は、内心面白くなかったろう。

 さらに道隆は一条天皇に「関白の私が病の間は、内大臣の伊周に内覧(天皇に奉る諸文書を先に見る権限)を許し、政務を委ねてほしい」と依願し、天皇の了解を得たのである。

 長徳元年(995)4月、道隆は43歳で没してしまう。死因は糖尿病だったとされるが、臨終のさい道隆は、我が子・伊周に関白の職を与えるよう天皇に依願したが、認められなかった。諦められなかったのだろう、伊周自身も自分を関白にしてくれるよう天皇に迫った。

 一条天皇はまだ16歳だったが、この強引さに気分を害したのか、結局、伊周の叔父である道兼(道長の実兄)に関白の職を与えた。

 しかし、その道兼は半月もしないうちに疱瘡(天然痘)で亡くなってしまったのだ。じつは前年からこの感染症が猛威をふるっており、道兼を含め、主だった公卿14人のうち8人が死去するという異常事態になっていた。

 こうした中、道隆から道兼へと兄弟順で関白が継承されたことから、にわかに脚光を浴びたのが2人の弟・道長であった。結局、道長は関白にならなかったものの、内覧を許され、さらに右大臣となって伊周を凌駕した。

 この人事を一条天皇に強く働きかけたのは、天皇の母・詮子だった。前述のとおり道長をいたく気に入っていた詮子は、息子の寝所に押しかけてまで道長を抜擢するよう迫ったという。

伊周の左遷

 この人事に腹を立てた伊周は同年7月、周囲が驚くほど道長と激しい口論をしている。憤懣やる方ない伊周は、気持ちも荒廃してしまったようで、翌長徳2年(996)にとんでもない事件を引き起こした。

 伊周は藤原為光の娘・三の君のもとへ通っていたが、花山法皇も同じ屋敷に通っていることを知る。「さては三の君を奪うつもりか」と激怒し、弟の隆家に命じて法皇が為光の屋敷から出てきたところに矢を射かけさせたのだ。矢は法皇の袖に当たったそうだ。隆家の従者が法皇の童子2人を殺し、首を持ち去ったともいう。