映像は恣意的なものだ。でも、映像は客観を装う

 マイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』を再見した。公開時には日本国内だけでも39万人という動員を記録したこの映画については、(カンヌでパルムドールを受賞した『華氏911』も含めて)僕は大きな評価をしていない。

 ただし、一般的なムーアへの批判である「現実を恣意的に切り取っている」とか「都合良く論理を構成している」などの観点に同調するつもりはまったくない。作品は自己の表出であり、「恣意的に切り取る」ことは当たり前だ。ムーアの場合は確かに少し過剰ではあるけれど、これはすべての作品に言えることだ。恣意的ではない編集などありえない。

 ところが映像は客観を装う。あるいは観る側はそう思い込もうとする。こうして虚実が融解する。これは映像の特質だ。一例をあげる。僕たちは当たり前のように「動画」という言葉を使うけれど、フィルムもビデオもすべて原理はパラパラ漫画だ。つまり実際には動いていない。フィルムなら24分の1秒、そしてビデオなら30分の1秒の静止画が連続することで、動いているように見えるだけだ。それが映像の本質だ。そもそもは錯覚から始まっている。

 映像の編集はモンタージュと呼称される。その意味は(フランス語で)機械などを組み立てること。つまり映像を編集する行為は、異なる映像の組み合わせによって新たな意味を提示することでもある。

 舞台はアメリカ西部。カウボーイがウイスキーの入ったグラスを手にしている。カウボーイはグラスを目の前にかざす。真赤な夕陽が地平線に沈む。次のカットでグラスが空になっていたら、誰もがカウボーイはウイスキーを飲みほしたのだと解釈する。つまり映像の編集は、観る側が欠損を想像することで成立する。グラスを目の前にかざしてからカウボーイがウイスキーを地面に捨てたとは誰も思わない。こうして異なるカットの組み合わせによってシークェンスが生まれる。つまりドラマツルギーが励起する。

 現実をある視点から切り取ることで静止画を撮る。その静止画が集積することで動画としての錯覚が生まれ、さらにカットの組み合わせによって観る側の想像力が駆動して新たな意味が付与される。