ローソン離脱で絶体絶命!Tポイントの“救世主”はサークルKかファミマか…「大博打」のトップ交渉秘話Photo:Bloomberg/gettyimages

カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)が立ち上げたTポイントは2005年秋、ローソンの脱退通告によって絶体絶命の危機を迎える。CCCは生き残りを懸けて、コンビニの新たなパートナー探しを急ぐ。長期連載『共通ポイント20年戦争』の#16では、サークルKサンクスとファミリーマートとの間で繰り広げられた加盟交渉の舞台裏を明らかにする。(ダイヤモンド編集部副編集長 名古屋和希)

背水の陣となったコンビニの加盟交渉
サークルKサンクスのトップに直談判

 日本初の共通ポイント、Tポイントは2005年秋、加盟店の中核であるローソンの脱退通告で、絶体絶命の危機を迎えた(『ローソンの電撃離脱でTポイント終焉危機!新ポイント連合もちらつく脱退の舞台裏』参照)。

 Tポイントを考案したカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)副社長の笠原和彦は焦っていた。ローソンの契約期限は07年3月末で、残された時間はわずか1年半。ポイントビジネスにとってコンビニは中核といえる。生き残りを懸け、ローソンに代わるコンビニエンスストアのパートナーを確保しなければならなかった。

「Tポイントを導入してもらえませんか」。06年3月、笠原は東京都中央区のサークルKサンクス(現ファミリーマート)本社を訪れ、相談役だった橘高隆哉にそう提案した。

 04年にサークルケイ・ジャパンとサンクスアンドアソシエイツが統合して誕生したサークルKサンクスは、コンビニ業界では、セブン-イレブン、ローソン、ファミリーマートに次ぐ4位だった。

 4大コンビニの一角を率いる橘高は、もともとはサンクスを設立した総合スーパーの長崎屋の出身である。その後、サンクスに移り、コンビニビジネスに身を投じていた。

 橘高と笠原の縁はその数年前にさかのぼる。笠原は、経営再建中だった長崎屋傘下のビデオレンタルチェーン3位のサンホームビデオの買収に動いていた。CCCが展開するTSUTAYAの首位固めを盤石にする狙いだった。笠原が長崎屋の創業者である岩田家にアプローチしていた時に出会ったのが、当時長崎屋子会社だったサンクスの社長を務める橘高だったのだ。笠原と同じ同志社大学出身だったことも親交を深める一因となった。

 橘高は、合併したサークルKの出身者からも慕われるなど“親分肌”の経営者だった。そして、ITなどの新しい技術への関心や理解度も非常に高かった。コンビニ業界初となる電子マネーや店頭の情報端末の導入は、ひとえに橘高の進取果敢の精神が反映されたものといえる。

 当時は業界4位とはいえ、1日当たり店舗平均売上高(日販)は、ローソンやファミリーマートを上回っていた。ローソンに袖にされてしまったCCCにとって、願ってもない有力なパートナー候補だった。

 共通ポイントの説明を聞いた橘高は、笠原に専務の石原彰を窓口とするように伝える。その後、笠原は、決済などを所管する本部長だった塚本直吉とも議論を交わすようになる。この頃、笠原はサークルKサンクスに頻繁に足を運んでいる。

 ちなみに、日本電信電話公社(現NTT)の協力会社である日本電話施設の技術者からサークルKに転じた塚本は、商品開発やITに明るく、その後さまざまな畑を渡り歩く異色のキャリアを歩む。

 サークルKサンクスがファミリーマートに経営統合された後も活躍し、商品本部長やデジタル・金融事業本部長などを歴任する。のちの回で触れることになるが、塚本の存在は共通ポイントビジネスの趨勢を大きく左右することになる。

 サークルKサンクスとの交渉が、現場レベルでも議論が進むなど順調だった一方で、停滞していたのが、業界3位のファミリーマートとの加盟交渉である。Tポイント加盟は「1業種1社」ルールがあるものの、笠原は両社との交渉を並行して進めていた。

 06年7月、笠原はファミリーマートの部長と面会する。だが、議論は遅々として進まない。膠着(こうちゃく)した事態を打開するために笠原は、イチかバチかトップ交渉に打って出ることを決める。

「ポイントの話でお会いしたい」。CCC社長の増田宗昭が電話したのが、当時ファミリーマート社長だった上田準二である。伊藤忠商事出身の上田は02年からトップの座にあった。

 当時、増田はローソンの社外取締役を務めていた。ライバル陣営の一員である増田からのアポイントを上田がいぶかしがったのは想像に難くない。だが、上田は増田らに会うことを決めた。