NECのトップ営業マンから「レンタル屋」へ!TSUTAYA草創期の元幹部の苦闘創業間もなくのTSUTAYA

2003年に日本初の共通ポイントを生み出したのが、元カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)副社長の笠原和彦である。その笠原はNECの敏腕セールスマンだった1989年にCCCに移籍。創業社長の増田宗昭の“右腕”として、ビデオレンタルチェーンのTSUTAYAの飛躍を支えた。笠原はなぜ名門企業から“無名”のCCCに転じたのか。長期連載『共通ポイント20年戦争』の#17では、共通ポイント誕生からさらに10年以上も時計の針を戻し、草創期のCCCの秘話を明らかにする。(ダイヤモンド編集部副編集長 名古屋和希)

ライバルに頼まれCCCを支援
システムのFC化に可能性感じる

「手伝ってほしい」。1985年6月、NECの営業マンだった笠原和彦は、電話でそう頼まれた。電話の相手は、同年9月のカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)設立時に取締役に就任することになる寺尾和明である。寺尾はのちにCCCが衛星放送事業に参入すると、同事業に専念する増田宗昭に代わりCCC社長を務める。

 実は、寺尾はシャープの営業マンだった。NECの笠原とは「ライバル」である。だが、ある取引の失注などをきっかけにシャープを去っていた。その取引先とは、関西地盤の丸善石油の大手特約店、小浦石油である。

 そもそも丸善石油は松下電器(現パナソニックホールディングス)の和歌山工場に燃料油を納めていた関係から、特約店には松下電器のPOS(販売時点情報管理)システムを指定していた。だが、小浦石油トップの小浦務が、シャープの「中興の祖」である佐伯旭と親しく、シャープのPOSを導入していた。丸善石油の全国の特約店の中で唯一の例外だった。

 だが、その取引を笠原がひっくり返した。シャープに代わってNECがPOSシステムを納入したのだ。職場に居づらくなった寺尾は、増田が1983年に立ち上げたCCCの前身である蔦屋書店に出入りしていた。寺尾への“負い目”もあった笠原は、アドバイザーを引き受けることにする。

 当時、蔦屋書店は一号店の枚方駅前店(大阪府枚方市)と江坂店(同府吹田市)の二つの直営店のみ。江坂店を訪れた笠原は、そこで増田と初めて顔を合わせる。増田は青色のオックスフォードのボタンダウンに、リーバイスのジーンズ、コンバースの白いバッシュといういで立ちで、さわやかな笑顔を浮かべていた。この時、増田が34歳、笠原は30歳だった。

「レンタル店のフランチャイズ(FC)ビジネスをやりたい」。増田は初めて会った笠原にそんな夢を語った。しかし、増田が命名した蔦屋書店という“看板”にはブランド力はなく、加盟店のために大量仕入れをする購買力もない。FCビジネスなどできるわけがない。

 増田が強調したのが、レコードの目利き力である。当時、毎月2700枚のレコードがリリースされていた。全て仕入れたら確実に倒産するが、売れる可能性が高いものを選べるのであれば、それは強みとなる。笠原は、“売れ筋”を発注する仕組みを作って、加盟店に提供するビジネスは成り立つ可能性があると考えた。いわば、システムフランチャイズビジネスである。

 流れで、NECがそのシステムを受注することになった。「従業員7人のCCCが1億円をシステムに投じた」。増田は、しばしばそんな創業時のエピソードを語っている。ただし、実際には1億円ではなく、4000万円ほどだったとされる。営業マンの笠原が自らシステムの要件定義などを手掛けたため、投資額が抑えられたのだ。

 笠原は、毎朝、江坂店に“出勤”し、システムのコードを書いた。笠原が手掛けた会員コードの体系や商品のジャンルコード分けなどの基本設計は、いまだにTSUTAYAで変更されずに使われている。

 笠原はNECの社員でありながらも、CCCの社員のようでもあった。NECの顧客にCCCのFCビジネスも紹介して回っていたからだ。NECとCCCの“兼業”は丸4年間にもわたった。

 だが、二足のわらじに終止符を打つ時がくる。