新紙幣の一万円札に採用された「日本資本主義の父」、渋沢栄一は1918年に東急の源流となる田園都市株式会社を興した。同社から独立した目黒蒲田電鉄(東急電鉄の前身)は、鉄道省から転じた五島慶太の手腕によって「西の阪急」と並び「東の東急」と称される私鉄王国となる。その東急は2020年から、鉄道事業者では異例ともいえる楽天ポイントをグループ各社に広く受け入れている。長期連載『共通ポイント20年戦争』の#33では、100年を超える歴史を持つ名門グループが新興勢力である楽天のポイント経済圏に参画した経緯をひもといていく。(ダイヤモンド編集部副編集長 名古屋和希)
三茶の複合ビルがCCCと東急の縁
東急が展開したTSUTAYAは盛況
楽天(現楽天グループ)が展開する楽天ポイントの総責任者である笠原和彦と東急グループの縁は約30年前にさかのぼる。両者を結んだのは、東急グループが東京・三軒茶屋に開発した複合ビル「キャロットタワー」である。当時、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)でビデオレンタルチェーン、TSUTAYA事業を担っていた笠原が、まだ東京に数店舗しかなかったTSUTAYAの旗艦店を立ち上げるため、この一大ランドマークに出店すべく交渉に乗り出したのだ。
東急電鉄に問い合わせたところ、東急百貨店が手掛けている案件だと知らされる。最初はCCC社長だった増田宗昭が、東急百貨店の会長だった三浦守の元を訪れる。東急電鉄の創業者・五島慶太の息子でグループ総帥だった昇の薫陶を受けた三浦は、10年以上も東急百貨店のトップに君臨するなどグループ内で強い影響力を持っていた。
その後、交渉の実務を担った笠原が東急百貨店の担当者に工事中だったキャロットタワーの地下に案内される。広大な工事現場で、たくさんの作業員が掘削を続けていた。笠原は、巨大プロジェクトを目の当たりにし、感動する。増田も夜中に工事現場を視察し、出店が決まる。そして、1996年11月、当時としては東京都内で最大級だったTSUTAYA三軒茶屋店がオープンしたのだ。
ビデオレンタルが流行し、三軒茶屋店の業績は絶好調だった。東急グループ内でもその活況ぶりが話題になったほどだ。しばらくして、笠原の部下で営業を担当していた佐藤淳は、東急にTSUTAYAのフランチャイズ(FC)契約を持ちかける。佐藤はのちに笠原と同じくCCCから楽天に移り、現在は楽天ペイメント執行役員ペイメント戦略室長を務める。
佐藤の提案を受けた東急は社内で検討を進め、FC店の展開を決める。第1号店となったのが、東京・旗の台にあった東急バスの操車場の一部に出した旗の台店だった。大阪発祥のTSUTAYAはまだ都内に店舗は少なく、TSUTAYA旗の台店には利用者が押し寄せた。あまりの盛況ぶりに、東急が同じ敷地内に出したニッポンレンタカーのFC店の駐車場に利用者の車が並びレンタカーが置けないほどだった。
その後、東急は大岡山や二子玉川などにTSUTAYAを展開していく。自社の「駅ナカ」のコンビニ業態などと併せて運営していたのが、東急バスだった。笠原と東急グループの各社との結び付きは強まっていった。
誰もが知る「SHIBUYA TSUTAYA」の出店にも東急グループが絡んでいる。1999年12月、渋谷のスクランブル交差点前の商業ビルの当時のオーナーが東急百貨店だったのだ。東急百貨店がビルを保有していた理由は、すぐ裏手にある西武渋谷店のJR渋谷駅前への進出を妨げることだったとされる。そこに新たに商業ビルが建つ計画を聞きつけた増田が、再び三浦に直談判し、出店が決まった。以来、TSUTAYAの旗艦店として渋谷のランドマークとなっている。
2003年秋、笠原はTポイントを立ち上げると、東急グループにも導入を呼びかける。
最初に口説いたのが、グループ傘下の東急ホテルマネジメント(現東急ホテルズ&リゾーツ)副社長の磯崎浩亮だ。磯崎の父、叡は鉄道省出身。城山三郎の伝記のタイトルにもなった「粗にして野だが卑ではない」で有名な石田礼助の後任として日本国有鉄道(国鉄)の6代目の総裁を務めた。
磯崎は笠原を気に入り、Tポイントの導入をすんなりと決める。笠原は、余勢を駆ってグループの他の企業にも営業に回ったが、こちらは空振りに終わった。ただ、この時に多くの東急グループに知己を得たことが、のちに実を結ぶことになる。
それから10年後の2014年に楽天に転じた笠原は、かつての人脈をたどり東急に楽天ポイントの営業をかける。ただし、感触は鈍かった。