リコー市村清、2年半で再建を果たした「経営の神様」の手腕
 1917年に設立された理化学研究所の3代目所長である大河内正敏は、学術研究を産業の基盤にすることを目的に、研究成果ごとに会社を設立し、「理研コンツェルン」と呼ばれる企業群を形成していった。ピーク時には63社、工場数は121に達した。その一つが陽画感光紙の理研光学工業から発展したリコーである。

 市村清(1900年4月4日~1968年12月16日)はもともとやり手のセールスマンで、九州で保険外交員をしていた。やがて理研の感光紙の販売代理を引き受け、好成績を上げていたところ、大河内の目に留まり、まず九州一円の理研製品の総代理店を任され、続いてその範囲を朝鮮、満州にまで広げた。この活躍ぶりに大河内がほれ込み、理研の技術を事業化する理化学興業の感光紙部長に抜てきされ、後に感光紙部門が独立して理研光学工業となった際に、経営を任されることとなった。

 そして戦後、市村は次々に、さまざまな業種の企業を創業。信条とする「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」の三愛主義と共に、個性的な経営手法でいずれも大きな成功を収めた。62年には「日本経済新聞」の連載「私の履歴書」にも登場するなどで、名経営者として名をはせるようになる。

 ところが65年、東京オリンピック開催後の日本は不景気に襲われ(昭和40年不況)、サンウエーブ工業(現LIXIL)、日本特殊鋼(現大同特殊鋼)が会社更生法の適用を申請し、山陽特殊製鋼が倒産。証券市場も低迷し、山一證券の経営危機がささやかれ、取り付け騒ぎも勃発した。山一證券に対しては日本銀行による無担保・無制限に行う特別融資(日銀特融)が行われ、信用不安の拡大を抑えるという緊急措置も取られた。

 そんな中、優良企業だったリコーの業績も低迷。65年3月期、市村はリコーを無配としたことで、株主から非難され、「経営の神様」との世間の評価も失墜してしまう。65年9月30日号の「週刊ダイヤモンド」で市村は、「私は、人気の絶頂にあるというか、世間から、もてはやされていたとき、むしろ、不安を感じていた。人気だけはあっても、足が遊離して地に着いていないということが私自身にも分かるからだ。(中略)いわば胴上げされているようなものだった。(中略)それが今では、胴上げから下ろしてもらって、大地に足が着いた」と、再建に挑まんとする当時の精神状態について語っている(『リコー創業者・市村清、希代の起業家が直面した不況の乗り越え方〈後編〉』参照)。

 市村は再建の陣頭指揮を執り、人員の減員とともに思い切った昇給を実施し、成績判定に点数制度を採用するなどの組織改革を重点的に行い、共同責任意識を高めた上で新商品の開発に取り組んだ。これらが功を奏し2年半後の67年9月期に復配を実現する。そして、68年3月18日号の「週刊ダイヤモンド」誌上で、市村はその再建過程について詳細を明かしている。

 かくして再びその経営手腕に称賛が集まることとなったが、インタビューから8カ月後の68年11月17日、かねて患っていた食道がんが肝臓に転移し緊急入院、12月16日に68歳で生涯を閉じた。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

「経営の神様」が
無配を決意するまで

「週刊ダイヤモンド」1968年3月18日号1968年3月18日号より

――リコーが、1割2分配当から、一挙に無配に踏み切ったのは、いまから3年前の1965年3月期でしたね。

 当時、経営の神様のようにいわれ、マスコミにもてていたあなたの経営するリコーが無配、整理ということで、みんな驚いたものでした。

 64年春から金融の引き締めが始まり、不況が深化し、山陽特殊製鋼の倒産、日本特殊鋼の大幅赤字などで、昭和恐怖の再来などといわれていた時期だけに、おたくの無配転落は反響が大きかった。

 確か、リコーの株価は90円くらいから35~36円にまで急落しましたね。

市村 役員の中には、一挙に無配とするのはどうかという者もいました。しかしそんなごまかしはいけないといって、断固はねつけました。

――これはおかしいとお気付きになったのは……。