江戸時代初期、幕府が江戸に開かれて政治の中心は江戸に移った。実権も財力もない天皇と公家が残っただけなのに、その後の京都は奈良のように寂れてはいかなかった。どうしてだろう?
それはある商人が仕掛けた大規模インフラ整備で、「京都」が文化・商業都市として改めて誕生したからだ。彼の名は角倉了以(すみのくら・りょうい)。その開発事業のおかげで、幕末維新の舞台もお膳立てされたと言っていい。(作家 黒田 涼)
政治力も財力もなくなった「平安京」
戦国時代終わりごろの京都は、現代の京都とはもちろん、平安京時代の京都とも大きく異なる姿だった。
建設当時の平安京は東西約4.5キロ、南北約5.2キロと広大な都だったが、朝廷の権威が落ち、応仁の乱など戦乱で荒れ果てると、戦国時代末期には現在の左京北部の上京地区と南部の下京地区に離れて小さな市街地が残るだけになっていた。
人口は戦乱などで増減し、5万人から15万人の間と推計されている。当時の山口や堺・博多よりやや多い程度だ。
天皇は京都に住み続け、織田信長は二条城を築き、豊臣秀吉も聚楽第(じゅらくだい)と呼ばれる邸宅を築いて拠点としたが、秀吉は政治の中心を大坂城、のちに伏見城に移し、諸大名も大坂や伏見に屋敷を構えた。
徳川の世になると、幕府は大名と天皇・公家の結びつきを恐れ、大名が京都に入ることを禁じた。秀吉時代から商業の中心も大坂に移った。こうして京都は、「天皇と公家が住んでいる」というだけの町になった。
昔のように大荘園を持つわけでもない天皇や公家に財力はなく、大勢の武士が行き交うこともなくなった京都は経済的魅力に乏しく、奈良のように寂れてもおかしくなかった。