過激な脅迫をすればするほど、当事者たちが誤解される

「脅迫」の事実がニュースで報じられると、SNSなどで「みんなで応援しよう」という動きが盛り上がって注文が殺到したというのだ。同書の新聞広告にも「皆様の激励に御礼申し上げます Amazon総合1位」という文言が誇らしげに掲げられていた。

 つまり、この本を闇に葬り去ろうという脅迫行為が、効果絶大なプロモーションとなって発売前からバカ売れするという「脅迫者の狙いと真逆の結果」となったのだ。

 さて、こういう現象を耳にすると、トランスジェンダー当事者に対して特別な思い入れのない一般のみなさんはきっとこう首を傾げるのではないか。

「今どき、なんで脅迫なんて愚かなことをするのだろう?」

 紙媒体しかない昭和の時代ならいざ知らず、これだけネットやSNSで自由な言論活動が行われている今、「焚書」などと騒ぎ立てれば、かえって「悪目立ち」をして、「そんなに必死につぶしたい人がいるなんて、どんな内容だろう?」と人々の好奇心をかき立ててしまうのは、ちょっと冷静に考えれば誰でもわかる。

 また、出版が強行されたらされたで「よくも警告を無視したな」なんて、仮に産経新聞出版や販売した書店に火を放ち、怪我人や死者などの被害者を出そうものなら、脅迫者は世間から批判を浴びる。

 そうなると、トランスジェンダー当事者への差別や偏見が助長されてしまうのも、当然だろう。「焚書」していた人というのは、自分たちが正しいと信じることを守るためには、何の関係もない出版社社員や書店員の命などどうでもいいと考えている暴力的で危険な人々なのだ、という認識が社会に一気に広まるからだ。

 わかりやすく言えば、「この本に反対するのは対話が通じないヤバい連中だ」というネガイメージが定着する。それに伴って、ヤバい連中が人を傷つけてまで正当性を主張するトランスジェンダー当事者というのも、「ヤバい連中」に違いないという誤解が定着してしまうのである(念押しするが、「トランスジェンダー当事者=ヤバい連中」と言っているわけではない)。

 このあたりの構造は、60年代、70年代に日本中に吹き荒れていた暴力的な学生運動や、先ごろ逮捕された東アジア武装戦線メンバーの企業テロが、社会の支持を得ることなく「対話が通じないヤバい連中」というイメージが定着して、運動自体が徐々に下火になったことからもよくわかるだろう。

 このように今どき「焚書」などまったく理にかなっていない。にもかかわらず、人はなぜ「火をつけるぞ」などという不毛な脅迫を止めることができないのか。