イタリアには「バール」という簡単な食事を提供するカフェのような店がある。カウンターでエスプレッソやカプチーノ、時には酒を立ち飲みするなど、独自のコーヒー文化があるのだ。イタリア人にとって大切な存在であるバールの魅力に迫る。本稿は、島村菜津『コーヒー 至福の一杯を求めて バール文化とイタリア人』(光文社)の一部を抜粋・編集したものです。
広場、病院、森の中にまで……
イタリアに根付くバール文化
イタリアはさながら、バールの迷宮である。
田舎の駅で列車が遅れ、さて、どうしたものかと振り向けば、そこにBARの文字。
人里離れた森の修道院へ長距離バスでやってくれば、そこにもバール。
夕暮れ時、中世都市をさまよい、人恋しさに灯りに吸い込まれてみれば、これもバール。
小さな島で海岸通りを歩けば、そこにもバール、アルプスの山を歩けば、クロッカスの谷間の向こうにもバール。
大学にもバール、病院にもバール、広場にはこぞってバール……。
そのうちにすっかり刷り込まれ、BARの文字を見れば、涎を垂らして入ってしまうではないか。なかなか来ない列車も、修道院の長い坂道も、はては輝く地中海の眺めまでが、すべてはBARへ引き込むための策略にさえ思えてくる。
町はずれのひなびたバス停。バスは、5分おきになど来ない。次のバスまで、あと30分はゆうにある。夏の陽射しが容赦なく照りつけ、ジージーと鳴く蝉の声に暑さが増す。
手元にチケットはなく、車内で売ってもくれない。チケットを持たない客から罰金をとって儲けるシステムなのだ。前もってチケットを買っておかなければ大変、ときょろきょろすれば、へい、待ってましたとばかりに、そばにバールがある。表に紺色に白いTの字が入った小さな看板を掲げる「バール・タバッキ」である。バスのチケットだけでなく、煙草や切手、トトカルチョまでもが、エスプレッソと同居する不思議な店である。だが、ちょっと得をした気分になるのはなぜだろう。
この日、寄ったのは、バラ色の壁の二階家で、入り口に古風な裸電球がひとつあるだけの何の変哲もない、ごく普通の田舎のバールだった。
中に入ると、恰幅のいい主人が「こんにちは、何にしますか?」とにこやかに声をかける。テーブルでサンドイッチをかじっていた老人が、新聞から顔を上げ、じろっとこちらを見た。怯まず挨拶をすると、何だい、お前という表情のまま「こんにちは」と返事をしてくれた。