駆けつけると自転車が倒れ、子どもは投げ出されている。ハイヤーの運転手が降りてきて、自分の車にキズがあるのを見つけ、「このキズをどうしてくれるんだ」と妻に言ったという。

 妻は怒り心頭に発した。車のキズと人命とどっちが大事ですか! と怒鳴ったらしい。その話を聞いてぼくも怒った。子どもが目の前に倒れているのに車のキズの文句を言う奴がいるかね。ぼくが現場にいたら、きっと殴りかかっていただろう。妻は怒鳴りながら子どもを抱き、倒れた自転車を引きずって、交番へ行った。途中で運転手の態度が変わり、自分は子どもに当たっていない。目の前で子どもが倒れたのだと言い出した。このままでは不利だと思ったのだろうが、だったら車のキズはどうなるんだ。

 やがてハイヤー会社の上役がやってきて、子どもと母親を救急病院につれて行って一応検査をした。子どももケロッとしているし、医者も大丈夫だ言う。ただし、まれに後遺症が出ることがあるから注意していろということであった。まれとは言え、可能性皆無ではないから一件落着ではないのだが、とりあえずカスリ傷さえないのだから、奇蹟みたいなものである。

 しかしこの報告を仕事場の電話で受けたぼくは驚きましたね。第一声が「唱ちゃんが車とぶつかった」でしょう。心臓が止まるかと思った。「怪我はないけど」が次にきたのだが、やはり本人を見るまでは安心できない。予定していたことをキャンセルして家に帰ったのであった。

 帰ると子どもは元気なのに、妻が胸をおさえて痛がっている。怒鳴りすぎて呼吸がおかしくなった上に、子どもを抱き自転車を引きずり、さらに下の子の乳母車も押したから胸のスジがどうかなっちゃったのだと言う。二本の腕でそんなにいろんなことができるのかと思うが、気が転倒していて自分の行動についてはよく憶えていないのだ。火事場の馬鹿力のようなものが出たんでしょうね。

 それからしばらく、妻は神経が高ぶったまま、亭主の方も似たようなもので、つまらぬことから夫婦ゲンカになったり、思わぬ影響があった。わが家に平穏が戻るまで、事件後十日ほどかかったのである。

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