ヨーロッパを追い出され、禁酒法の制定やベトナム戦争といった激動の時代を生きた米国を代表する画家、ベン・シャーン(Ben Shahn/1898~1969年)。国家繁栄という光の裏で、戦争や移民差別、労働問題といった「米国の影」をテーマに描き続けたベン・シャーンはいつしか、不条理な社会を訴える「社会的リアリズムの画家」として、米国美術を代表する画家の一人となった。その独特の「震える線」で描かれた絵の魅力は、アンディ・ウォーホールをはじめとした多くの芸術家やグラフィックデザイナー(日本でも和田誠や粟津潔といった名だたるグラフィックデザイナーが敬愛を表明している)に多くの影響を与えた。そのベン・シャーンの代表作の一つが、米国の水爆実験による日本漁船の被ばくをテーマとした「ラッキードラゴン」シリーズだ。その経緯を、彼の軌跡とともに解説する。(ダイヤモンド社編集委員/クリエイティブディレクター 長谷川幸光)

南太平洋で水爆実験による爆発が発生
マグロ漁船に「死の灰」が降りかかる

「サッコとヴァンゼッティ事件」を描いた作品
「サッコとヴァンゼッティ事件」を描いた作品 Photo:Santi Visalli/gettyimages

 1954年3月1日、南太平洋のビキニ環礁付近(現在のマーシャル諸島共和国の一部)で、静岡県焼津港所属のマグロ漁船「第五福竜丸」(木造、全長約30メートル)が、出航時の計画に沿って漁を行っていた。

 夜明け前、マグロの延縄(はえなわ)を仕掛け終わり一息ついた瞬間、突然、空全体が明るくなる。

 西側に大きな光の塊が浮かび上がり、遅れて数分後、聞いたことのないような爆発音がとどろいた。それからしばらくすると見る見る雲が空を覆いつくし、その雲から雨に混じって「白い粉」が落ちてきた。

 日本本島から遠く離れた海でのこの気味の悪い現象に、乗組員たちは不安に駆られた。予定を繰り上げて日本本島へ戻ることを決め、仕掛けた網を急いで回収。無線長の久保山愛吉氏(当時39歳)は無線を切って、念の為に船の存在を隠した。向かい風の中で白い粉を浴びながら日本本島へ向かい、3月14日、第五福竜丸はようやく焼津港へ帰港する。

 第五福竜丸が遭遇したこの不思議な現象は、米国による水爆(水素爆弾)実験の爆発によるものであった。

 この実験に使用された水爆「ブラボー」は、広島に落とされた原子力爆弾の1000倍以上の爆発力を有していたとされる。

 この爆発によって砕けたサンゴ礁の粉塵がキノコ雲に吸い上げられ、大量の放射線物質を含んだ「死の灰」となり、危険区域を超えた広範囲の海や島々に放射性物質がまき散らされた。第五福竜丸の乗組員たちが浴びた白い粉はこの「死の灰」であり、23人の乗組員全員が被ばくした。

 約半年後、無線長の久保山氏が急性放射能症による肝臓障害によって、妻と3人の幼い子どもたち、そして年老いた母親を残して息を引き取った。最後の言葉は「原爆や水爆の被害者は私を最後にしてほしい」であった。

 生き残った乗組員たちも肝臓障害や肝臓ガンを患うなど、その後の人生には困難が待ち受けていた。