「○○の資格を持つ人で」とか「○○を学んだ人で」と言われるなら納得できるが、たかが18歳時点の試験で入った大学名だけを重視する文化は理解しがたい。

 しかも日本では、高校生の時点で、その本人がどんな特性があるのか、どんな職業に向いているのかを本人に見極めさせる教育をしていない。大学に行くのであれば、「偏差値」という、やはり日本でしか通用しない基準で、あいまいに受ける大学を決めているのが大半だろう。決して、あの大学なら、あの技術や知識が身に付くから決めたというわけでもない。

 また、日本の新聞もその洗脳を強化する片棒を担いでいる。

 新聞紙面で人物紹介の記事があると、例えばその人物が有名大学を卒業していれば、「東京大学を卒業した後……」などときちんと大学名を記す。そうでなければ「大学を卒業後……」などとぼかして書いている。有名ではない大学を出たら書くに値しない、と言外に記しているのだ。

 そして、もちろん官僚の世界でも確固とした学閥はある。東京大学法学部を出ていなければ、キャリア官僚の間では肩身が狭い。民間企業でも古い体質の業界には学閥はある。学生の就職では、そもそも大学名だけで篩にかけられる。こうした動かしがたい社会システムがあるために、親は子供の受験勉強に血眼になる。海外留学などという、日本の社会システムでは無意味なことに自己投資する意味はないと信じているのだ。

書影『外国人には奇妙にしか見えない 日本人という呪縛 国際化に対応できない特殊国家』『外国人には奇妙にしか見えない 日本人という呪縛 国際化に対応できない特殊国家』(徳間書店)
デニス・ウェストフィールド 著/西原哲也 訳

「聞こえのいい大学」に入学できればいい。外国語をマスターできなくても、日本社会では関係ないから構わない。

 日本人が抱える最も大きな洗脳の一つが、日本の大学制度の誤謬であり、そこに経済や社会の既得権益の源があるといっても過言ではない。従順だが無気力で、外国に関心がなく、海外に行こうともしない。日本はそうした若者を量産している。

 日本の社会の状況を変えるには、大学の入試制度を改革することが必須だと思われる。そのためには、先に紹介したオーストラリアの教育制度を参考にすべきだ。

 だがこの日本の社会システムの体制側が、まぎれもなく大学名を重視するシステムの既得権益の恩恵にあずかっている層であるため、このシステムを変えるのは至難の業となっている。