このコメントに何か違和感を感じるだろうか。日本人が聞けば、理解ある人事部長だな、とでも思うに過ぎないのではないか。

 だが彼にしてみれば、会社はあくまで彼が日本寄りだったから採用したということであり、彼の中国のアイデンティティーは日本に同化しなければならない、という大前提を感じたという。

 中国のアイデンティティーを彼の個性として受け入れているわけではないのだ。

 ダイバーシティーを掲げる日本の大企業が、「これからもっと国際化しようと中国出身の彼を採用した」のではなく、「日本企業のドメスティックで閉鎖的な社風に合うような、日本人寄りの外国人留学生だけを採用した」という真相を知ってショックを受けたという。

 これでは、そのままその大手商社に入っても、日本人の枠組みの中には入れず、いつまでも外国人というレッテルは付いて回ることになるだろう。外国人を受け入れるということは、その風習も文化も精神面までも受け入れる、ということだろう。日本人になりきるために、外国出身者がそのアイデンティティーや個性を消し去る必要はないはずだ。

 彼は「海外ビジネスに最も関わる大手商社で、しかも多彩な外国人を採用する人事部長でさえそうなのだから、日本企業の社風、日本社会はなかなか変わらないのだなと感じました」と話していた。

日本だけが陥っている
陳腐な「学歴信仰」

 日本の社会は、肩書が重要だ。中でも、どこの大学を出たかというのは極めて重要な肩書だ。

 決して「何を学んだか」「どんな資格や学位を取ったか」ではない。それが日本人にとっての「学歴」と言うらしい。そして、死ぬまでその肩書を後生大事に、肌身離さず抱え続ける。日本人全体が、陳腐な「学歴」信仰に洗脳されている。

 もし日本人がオーストラリアや欧米の大人に、あなたはどこの大学を出たのかと聞いたなら、一体何の意図で聞くのかとポカンとされるはずだ。

 筆者は時に、仕事の関係者から別の日本人を紹介されることがあるが、その時によく「彼(もしくは彼女)は○○大学を出た優秀な人で……」などと言われた。