スマホゲームで人生を消費するな。知っているということが、いずれ必ず武器になる。分断された世の中だからこそ、情報を浴び、知を獲得しろ。意識くらい、高く持て。

「意識高い系」はなぜ流行り、なぜ嫌われ、なぜ廃れていったのか。

「意識高い系」ムーブメントを作り出し、無責任に放置している僕は、今改めて考える必要があるのかもしれない。

 そもそも僕は本質的に意識が高いわけではない。ストイックに生きてもいないし、世界を良くしようとも思ってない。

 ではなぜ一時期、「意識高い系」のど真ん中にいたのか。それは「意識高い系」の構造が当時の自分にマッチしたからだ。

「意識高い系」への嫌悪は
「競技化」への嫌悪だった

 僕を含めた意識高い界隈の人間はすぐに物事を「競技化」しようとする特徴がある。

「競技化」とは、ゴールを決め、ルールを定め、競争させることだ。

 ビジネスやプロスポーツは「競技化」されているからこそ競争が生まれ、順位がつく。部活や受験勉強に明け暮れたことがある僕は、この「競技化」の中で戦うのがとても性に合っていた。

 同時に、僕を含めた「意識高い系」が嫌われるのは、「儲かるから」という合言葉であらゆるものを「競技化」しようとするからだろう。

 ある日、ツイッターでエゴサーチしていたら、「サウナも箕輪にやられたか。自分の好きな界隈にだけは箕輪は来ないでほしい」と書かれていた。市川海老蔵さんとの歌舞伎プロジェクトの打ち合わせの様子がネットニュースに載ると「箕輪に絡むなと義務教育の段階で教えた方がいい」と書かれていて、さすがに笑った。