「顔晴る」は人生の窮状をも
棚上げできる魔法の言葉

「顔晴る」が持つ響きは、そのような過酷さとは一線を画します。だからこそ、現実に風穴を開ける効果を期待されているのではないか――。筆者は、そう思いました。

 使い手の過酷な生活ぶりが垣間見える「顔晴る」の用例は、一般の人々の文章にも見いだすことができます。

 2019年1月5日付の愛媛新聞に、ある学校生活支援員の投書が載っていました。「息をするのが苦しくなったり表情がゆがんだりするくらい頑張るのは少しつらくなってきた」と打ち明ける内容です。

 心の糧が、勤め先の先生から教わった「顔晴る」。「今日はやりきった。明日も頑張ろう」と思えたら、私の顔は晴れ晴れとしているはず……。そんな風に日々を過ごしつつ、新しい一年を乗り切りたいと結んでいます。

 また2012年2月19日付の東京新聞に投稿された、認知症の夫を支える友人のエピソードも象徴的です。友人は元々、周囲から「頑張って」と声をかけられるたび、思い詰めていました。しかし「顔張る」と捉え直し、笑顔になるよう意識した結果、段々と柔和な表情に。やがて「主人に対しても以前より優しくなれた気がする」と言えるほど、気持ちが安定したといいます。

 いずれの主人公にも共通するのは、言葉を通して、現実の解釈を編み直している点です。自らの力だけでは抱えきれない、生きることのままならなさを、いったん棚上げする。そのことにより、心に余白をつくっているのだ、と考えられそうです。

 その意味で「顔晴る」は、単なる「頑張る」の言い換えではありません。「責任をもって、人生をより良くしようと努め続けるべき」という、世間的な要請を柔らかく受け止めるための緩衝材として機能しているのです。

 ただし第三者が「顔晴ろう」と迫れば、また別の暴力性を帯びてしまうでしょう。言われた側が感じている苦悩を、無視することにもなりかねません。「顔晴る」が救いとなるのは、あくまで当人が、その言葉を欲したときだけと言えます。

“努力至上主義”とでも表現すべき風潮が強まる中、一種の自己防衛機制として成り立つ言葉「顔晴る」。楽天的なようでいて、私たちが暮らす社会の今を鋭く映し出す、興味深い語句だと感じました。