1964年9月14日号 北島織衛 大日本印刷社長
 1929年に東京帝国大学法学部を卒業した北島織衛(1905年12月31日~80年4月27日)は、大日本印刷の前身である印刷会社、秀英舎に入社した。1876年設立の秀英舎の社名は「英国より秀でる会社になる」との願いを込めて勝海舟がつけたものだ。老舗の名門とはいえ、帝大法学部の出身者であれば、多くが官庁か一流企業に入る時代である。当時、印刷会社というのは必ずしも帝大出の秀才が入る業界ではなかった。

 しかし、ろくに就職活動をしなかったため、当時、実父である青木弘がいた秀英舎に「有無を言わせず入社させられた」と、北島は「ダイヤモンド」1967年9月18日号のインタビュー記事で述べている。だから、「新入社員時代は楽しいわけがない。仕事には身が入らず、同窓の仲間には絶えずコンプレックスを感じていて、クラス会にもほとんど出席しなかった」(同号)という。

 その後、北島は27歳のときに北島吉兵衛の養子に入る。30代にもなると印刷業で生きていく覚悟を決め、「印刷業の社会的地位を高めること。高給で誇りのある仕事にすること」に心血を注ぐこととなった。

 55年に社長に就任すると、印刷業界4位だった二葉印刷の吸収合併などを通じた規模拡大や、の買収や、写真印刷における鉛版腐食技術から生まれたシャドーマスク(ブラウン管に応用される)の製作で電子部品分野にいち早く進出するなどで、近代的印刷会社への変革を主導した。大日本印刷を、TOPPANホールディングスと共に世界最大規模の総合印刷会社に育て上げた“中興の祖”とされる。

 その北島が「ダイヤモンド」64年9月14日号の「私の経営哲学・私の経営方針」というコーナーで、ワンマン主義と民主主義、経営者の交代時機について語っている。「わが国の企業の現状では、会社を伸ばすためには、ワンマン経営の方が手っ取り早い」というのは、いかにも北島らしい。また、経営者の交代時機については、「一手も二手も遅れているように思う。日本の財界には、多分に封建主義的なところがあって、思い切った人事の刷新を好まない」と苦言を呈している。

 北島自身は24年間社長を務め、79年に長男である義俊に社長を譲った。義俊は2018年まで社長を続け、後任社長には長男の義斉が就任した。北島家は大日本印刷の創業家でもオーナーでもないが、実に70年近くにわたって“世襲”が続いていることになる。ワンマン経営はまだしも、“思い切ったトップ人事の刷新”の必要性を、世襲の伝統をつくった1代目が説いているのは、いささか皮肉ではある。(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

成長段階の企業には
ワンマン経営が適している

 日本の民主主義は、先進国の翻訳だから、足が地に着いていないとか、表面だけの猿まねで、その本質を理解していないとかいわれる。

大日本印刷“中興の祖”、北島織衛の「ワンマン経営とトップ人事」論1964年9月14日号

 確かに、われわれの周囲にはそうした民主主義を履き違えた事例が、あまりにも多い。

 会社経営についても、同じことがいえる。民主主義的な経営とは衆知を集めて最善の道を歩むことにあるはずである。みんなが卒直な意見を出し合って、徹底的に討議を重ねて結論を出す。そしてひとたび結論が出たら、反対意見を唱えた者も過去の行きがかりは一切捨てて、全面的な協力を惜しまない。これが民主主義のルールであろう。

 ところが、日本では長い間の伝統で、十分に議論を尽くさない。遠慮して決め手になるような発言をしない。妙に相手のメンツを立てたりして、いつも妥協しがちである。これでは中庸を得た計画が立つどころか、中途半端な発展性のないプランしか生まれない。

 それでいて、その計画が挫折しようものなら、もともと自分は反対意見だったなどと、陰口をたたいたりする。どうも民主主義の悪い面ばかりが目立つようである。

 さればといって、ワンマン経営に限るとか、ワンマン経営の方が優れているとか、簡単に即断は下せない。ワンマン経営にも長所もあれば短所もある。民主的経営も運営の妙を得さえすれば、堅実経営の成果を期待できるに違いない。